カテゴリ:未分類( 39 )
あの夏 この夏
          あの夏 この夏

 ひぐらし 風鈴 金魚ばち

 紅いはなおがカラカラ鳴った

 あの夏 空は満月で

 妹 欲しいと困らせた

 母のうちわがいい気持ち

   あの夏 この夏 聞こえてくるよ
   紅い はなおの 下駄の音
   祭囃子の笛 太鼓
   チリリン チリリン 風の音

 蚊帳から見える 百合の花

 匂いを いっぱい吸い込めば 
 
 明日のあさは 大人ひなれる

 ねえねの引き出し こっそり開けた

 甘い匂いでおかしくなった


   あの夏 この夏 聞こえてくるよ
   紅い はなおの 下駄の音
   祭囃子の笛 太鼓
   チリリン チリリン 風の音


 お祭 ぼんぼり 水中花

 長屋の角に お化けが出ると

 あの夏 夜は目をあけず

 目隠し便所に 告白のラブレター


   あの夏 この夏 聞こえてくるよ
   紅い はなおの 下駄の音
   祭囃子の笛 太鼓
   チリリン チリリン 風の音


 馬乗り ビー玉 町営プール

 じゃんけん負けた三郎くん

 あの子のオッパイ さわれるか

 苦手な潜水届かない

 水しぶきに 見上げれば

 空高く どこまでも青い


    あの夏 この夏 聞こえてくるよ
    紅いはなおの 下駄の音
    祭囃子の笛 太鼓
    チリリン チリリン 風の音


 ひぐらし 風鈴 金魚ばち
 
 紅いはなおがカラカラ鳴った

 あの夏 空は満月で

 大人になったらケッコンしましょ

 草笛吹いた帰り道

 野原のはてまでおまじない


   あの夏 この夏 聞こえてくるよ
   紅いはなおの 下駄の音
   祭囃子の笛 太鼓
   チリリン チリリン 風の音


 線香花火がパチパチ光る

 とうさん かあさんパチパチ光る

 瞳の中に月ふたつ

 僕の瞳も光ってる

 夜干しのタオルに夜風があたる

 夢見るあしたがパチパチ光る


  あの夏 この夏 聞こえくるよ
  紅いはなおの 下駄の音
  祭囃子の笛 太鼓
  チリリン チリリン 風の音


 長屋が急に明るくなった

 グワーン グワーンと洗たく機

 テレビの中は力道山

 空手チョップで大逆転

 うずまく水を覗き込む

 母の金歯がキラリと光る


   あの夏 この夏 聞こえてくるよ
   紅いはなおの 下駄の音
   祭囃子の笛 太鼓
   チリリン チリリン 風の音


 電信柱がリッパになって

 駅も工場もリッパになって

 東海村の太古の火
 
 プロメテウスの火が点いた

 だあれも消せない火が点いた


   あの夏 この夏 聞こえてくよ
   紅いはなおの下駄の音
   祭囃子の笛 太鼓
   チリリン チリリン 風の音


 遠くの空の黒い森

 今日も誰かが死にました

 遠くの空の黒い川

今日も見慣れぬ小舟が浮かぶ

遠くの空の黒い雲

今日も誰かが死んだこと

知らせる雲が

また ひとつ


  あの夏 この夏 聞こえてくるよ
  紅いはなおは軍靴になって
  祭囃子は突撃ラッパ
  チリリン チリリン 風の音
  トッペケ ヶッヶと叫ぶのは
  誰?


                        1998.夏2013加筆   高橋秀夫
  
[PR]
by hidesannno | 2013-07-22 23:42
夢を編む その8  「親和力Ⅱ」
夢を編む その8
              親和力Ⅱ

                                  高橋秀夫

 6月は梅雨。月の暦では水無月。この時期に水の無い月というのはおかしいが神無月の神の無い月と同様「無」は「な」ではなく「の」と意味するらしい。つまり、水の月、神の月が本来の月名という。
 水無月6月は田んぼに水を引き入れる時、山からの水は田を一面水鏡のようにし、山の神は水とともに降りてきて田の神となり、その年の豊穣をもたらしてくれる。だから、この時期の水は大変大事なものなのである。いまでも水口に笹などを飾り、田の神を大事に向かい入れる風習は時々、見かける。
 町中に暮す僕らは暗渠に流れる水に深く感謝することなどないが田んぼに満ちる水を、それを蓄える山林の保全を祈るように見守る農民の気持ちは水口に笹を飾り、どうぞ、おいで下さいと願う信心の様となって現われるのでしょう。それは人が山や川、たくさんの動植物と呼応して暮している本来の姿であるように思います。
 僕たちが井戸の水を汲んで暮していた時代は遠の昔のことだが水がいかに大事なものであるかは思い返す必要があると思います。
 かって、人に限らず生き物は水辺の近くに住み、山を拓き山野から糧を得てくらしていた。そして、集落ができ、人々は力を合わせてあたりの自然からの恩恵で暮していた。さほど、大昔の話ではない、ほんの100年も前のことである。明治時代の国勢調査で見つかった山村も少なくないという。
 人が豊かに暮す風土が現代とは全くちがっていた証拠なんでしょう。
 日本列島を考えれば、つまり、細長く延びた3000キロの大地、風さえ越えない山岳、血脈のように流れる河川。そして。平野が広がり海に面している。何とも豊かな風土であるか。賢明な社会学者や経済学者がいて、この風土にあいまった人口のキャパや資源の保全と維持を示していたらもしかして、いまでも理想郷として人々は暮していたかもしれない。
 
 梅雨時は店では恒例の梅の注文の時期でもある。
しかし、今年は梅雨入り宣言がいつもよりずいぶんと早かった。誰しもこれは長雨かと心配していたが、どっこい、一向に雨は降らない。それどころか晴天続きである、家の紫陽花も何とも絵にならないままだ。だいたいこの時期はにび色の低い空を見上げてはトホトホとため息をついて静かな雨音に時の移ろいを「待つ」ひと時なのです。それが、このように真夏のような青空が続くと今度は
空梅雨、水不足、旱魃・・・苗は、夏野菜は大丈夫かと胸の内は暗雲が広がってくる。
 店で梅の話をしながら「温暖化?」「季節感がつかめんね」と話題は現代の情勢から戸惑いの様相でもちきりだ。季節感って言ったってトマトはすっかり一年中出まわっているし、ちょっと前のトマト神話と呼んだ初夏の新鮮な感動は薄れている。トマト神話というのは店を始めた頃は品数もたいして多くなく、6月と言えば完熟の渥美土百姓のトマトがどっさと並ぶ時期だった。売れる量などしれたもの、しかし、毎日毎日どっさ、どっさと入荷する。
 当時、まわりでは青い硬そうなトマトが並ぶ中、店のトマトは木なりの完熟。まっかっかのトマト。
渥美のトマト畑はぎりぎりまで水をきり、枯れそうと見えたときにジャーと水をまく。トマトはからからの蛇のように一気にその水をゴクゴクと飲むように、美味しそうに吸収する。そして、見違えるほどに凛として赤く染め上がる。考えただけでまずいわけがない。いのちの営みの正に奇跡なのです。
 それが、毎日毎日どっさどっさとくる。店といってもまだまだ新参もん。お客もどっさどっさと来てくれたらいいがそうならない。手分けしてあちこちに戸板をもって路上販売にでかけた。
 妙な風体が売るトマト。なかなか苦戦が続くが妙な格好のもんやが一生懸命な笑顔の口上とプリッとした赤いトマトはやはり、パワーがある。おそるおそるだが買ってくれる人がでてきた。
 次の日も戸板にトマトを並べ。惜しみなく声を張り上げた。
「このトマト最高!」と昨日のお客さんがきてくれた。友達も一緒だ。話ははずみ、行きかう人らが立ち止まって、気がつくと輪ができている。飛ぶようにとはいかないが売れた。それは、僕らには信じられないことで、ものすごく嬉しかったのを覚えている。
 これをきっかけに店にお客さんがたくさん来てくれて「美味しいトマトのあるお店」としてこの町にデビューしたのである。
 畑の奇跡が店の中でも起こったのである。戦術でも戦略でもない。
店に日に日に積み重なっていくトマトを前にどうにかしょう、何とかしょう・・と思い立っての行動でした。ただ、こんな方法しか思いつかなかった。また、ことさらに無農薬を強調したわけでもないし、市場流通を批判してこのトマトが本物、みたいなことを言ったわけでもない。ただただ必死になって声を張り上げただけだった。だって、大きな声で言わないと誰も見向きもしないからね。
それと、買ってくれたらびっくりさせるほど喜んだな。きっと、そんな単純で素朴なとこが良かったのかもしれないな。
 これを、僕たちは「トマト神話」と名付けた。

 あれから、30年がたった。トマト神話の主役トマトはどこでも真っ赤なトマトで見分けもつかないほどずらりと並んでいる。あの時、めずらしいものはもうすっかり当たり前になって、看板も口上も飽きるほどに、「無農薬」「自然」「本物」「エコ」「オーガニック」とどこでも見かけるようになった。
 僕たちがかっての農法、つまり、農薬や化学肥料に頼らず、手数をかけて育てた野菜を手渡す仕事をはじめた時。なんて非経済的で虫食いの不細工なものを誰が食べるってか、とやんやん言われたものだ。新しいものは海を越えて外国からどんどん安く入ってくる。
「何で?」と何度も聞かれた。明確な答えはなかった。とにかく、自然の産物と、農家も言うほどに「不」自然ではないことを考えた。さらに、金がないものだから形状や見た目などに使う金銭的な余裕がないというのも欲を出さずに済んだ理由かもしれない。
 また、決して憂鬱なる果てに向かった土への逃避でもない。むしろ、積極的に土の匂いのする仕事として選んでいった。そして、向こう見ずで計算高くなく、楽しい仕事として胸を張って毎日を送った。

 慣れというものは怖いものである。
当時は袋もない、包装は新聞紙。野菜はバラで量り売り。野菜も曲がったもの小さいもの、でかいもの。畑の状態そのままを並べた。均一に出来るもの等ない。ちょうどいいもの、かたち、大きさなど畑を見ないレシピ集が作ったもの。台所がまさにうまさと美の舞台なのである。そして、楽しい場なのである。
 慣れは先入観をつくり、見慣れないものを敬遠し、時には排除さえする。生き物は何一つ同じものなどないし、それぞれみんな違って当たり前なのです。その自然の原理というか摂理をちゃんと知ることですね。自分の目と耳と手でね。

 吉野から梅が届いた。
30年来の付き合いの萩本さんがコンテナ10杯のきれいな梅を持ってきてくれた。かって、林業で栄えた西吉野村。30度近くある急峻の山肌に立っている木からひとつひとつ手で摘んだ南高梅。
空梅雨と言われていた空から堰をきったような、まるで篠突く雨のようにやってきた梅雨の雨の中
青々とした梅を届けてくれた。
 ことさらに、梅が好きというわけでもないが、また身体にいいから、日本の伝統食だからというこてでもないが、ここ30年欠かさず梅干しは仕込んでいる。とにかく、水無月6月、梅を漬けないとどうにも落ち着かないし、漬けないと6月という梅雨がなくなってしまうような気になるのである。
 これも何かの原理というか摂理というか、ただ、そうすることになっているという感じなのです。夏を越す風物詩ですかね。風鈴を軒先につるすのもこの時期ですね。

 政府は英語教育を強調しています。世界を股にかけて語学堪能なビジネスマンを育て外貨を稼ぐグローバル人材を増やすというのか。彼らは美しい日本語を忘れないといいが・・・。
 篠突く雨で空梅雨を返上した梅雨の日。梅を置いて帰る萩本夫婦を見送る空はいつの間にか静かな五月雨となっている。一億みんなの軒先に風鈴を吊るしてチリリンと夏を向かえ、風を待つ。
そしたら、原発一基いらないな。
 そんな精神風土、文化を大切にしたいですね。

 生き物でもあるぼく達人間は力ずくで道を作ったり、他者を蹴落として明日にむかってもちっとも面白くない生き方なんだって気付かないとね。

 最後に自然の摂理、原理をきれいな日本語で表現したナナオ・サカキの詩を紹介してお終いにしましょうか。

         男は いつも 女と
       
         女は いつも 花と

         花は いつも 鳥と

         鳥は いつも 風と

         風は いつも 雲と

         雲は いつも 空と

         空は いつも お前と

 次回は山尾三省さんと鶴田静さんの宮沢賢治像を考えてみようとおもってます。
鶴田静さんは「宮沢賢治の菜食思想」という本を出したばかりで、山尾三省さんは「野の道~宮沢賢治随想」という本を書いています。お二人の賢治像を見ながら親和力のことを考えてみましょう。


       高橋 秀夫     五月雨の梅を前に
 
[PR]
by hidesannno | 2013-06-21 07:00
夢を編むその7  親和力
夢を編む その7      
                  
                親和力 (1)


 今年の冬は寒かった。
 久しぶりに大根が凍るのを心配したほど.それに、何故かやけに長くも感じた。
それでも、昨年、店に戸を入れたので、まだましであったが、じわじわと冷える足元、大根の心配もさることながら足踏みしながらの野菜売りは結構つらい。
 でも、やがて春は来るものだ。
東大寺のお水取りが終わると水が緩み、山から融風と呼ばれる風がおりてくる。
 そのやわらかい風はお水取り(修二会)の錬行衆(二月堂にこもる)の声明とほら貝と共に現れる神々の使徒かもしれない。
 融風、あらゆるものにあまねく吹き渡る風と言われ春一番の温かい風である。
さらに、使徒である融風の役割はつづく。
二月堂十一面観音菩薩に集った諸国諸々の神々が天空を飛翔する際の風のジュータンでもある。
木や鳥や川や田んぼや人々に春を告げながら巡るのである。
そして、言い伝えどうり奈良の地に春が訪れる。
 
 壁の絵も差し替えた。
 水上勉の大根からイサムのココペリにした。
イサムが亡くなって一年、散歩好きだったからさぞかし春の到来を喜んでいることだろう。
風のジュータンに跨ってあちこち散歩してるかもしれない。

昨年、 それぞれが持ち寄ったイサムの絵を飾って誕生日の四月七日をはさんで回顧展をしてからもう一年がたった。さて、今年はなどと思っていると和子さんから電話がきた。
 「伏原さんが四月初めはイサムのために画廊を空けてあるらしい、
 毎年やろうって言ったの誰やった・・・
 去年ほどではないけどなにかしようかと。
 とにかくちょっと考えておいて」
という電話であった。
妙なものだ、まるでイサムが行き来して耳打ちしたのではと思うほど偶然の一致だ。
いかにもイサムらしいと言えばイサムらしいが、ちゃんと舞台はできていてあとはイサムを「呼ぶ」だけみたいな無計画のなかの段取りはきっと、誰よりもイサム自身が楽しみにしていることなんだと、思った。どこへ行っても、オンザロードのイサムには居場所は必ずあるもんだ。
 やはり、生きてる。絵の中に生きているんだと本気で思った。


 命日をめいにちと読まずにいのちの日と読んでみる
 すると
 瑞々しい青の光が心に浮かぶ
 いのちという不可思議な光

 産は生  生はいのち  いのちは愛  
 死は回帰  回帰は産(うぶ)  産はいのち
 いのちはあなた  あなたは光  光りはわたし

 命日をめいにちと読まずにいにちの日と読んでみる
 すると
 瑞々しい青の光が心に浮かぶ
 いのちという不可思議な光

「追悼とか回顧とか一周忌みたいなのは止そうよ」
「イサムの頭文字をとって、〈い〉のち・〈さ〉く・〈む〉らってどう」
和子さんはそう続け。 
「小さくもなく、大きくもない
声が届き、姿が見え、少しの間違えはすぐにでも直せ、手を繋げば村を守れる。
そんな村を思って今年のイサム展を開きたい」と和子さん。

 イ のち サ く ム ら

今年のイサム誕生祭はこんな風に決まっていった。

  祭りはいい。まつりとは人がまつろい(集まり)、人がまつらう(交わる)時である。
イサムにはぴったりだ。多分、イサムのことだから人ばかりではなさそうだが・・。
 また、会場となる場がいい。百年あまりの時のひだを持つ、太い梁と白壁の堺町画廊。
京都の町家の静かな佇まいに鮮やかな岩絵の具の金のへびが現れる光景はまさしく、
秋野亥左牟そのものようだ。
 そして、イサムは一貫して象徴とか権威とかカリスマ性を嫌った。
だから、東大寺のお坊さんがどんなにほら貝を吹いてもやって来そうにない。
そんな時は多分、大海原の流木か幻の山で妖精たちに混ざって笛を吹いていることでしょう。

「イサムは死んだとはどうしても思えないよ。」
和子さんは何度も言う。
「お金は残さなかったけど、絵がある
その絵のなかには私が入っていける場所がちゃんとあるの」と。

 イサムの世界観、アニミズムという自然の摂理。そして、その一切のプリミティブの精神を注ぎ込んだイサムの絵はこのおぞましい時代に生きる私達へのシグナル。
立ち止まり、戸惑う我と我らの時代。
在野と辺境を旅し、その筆先が印したイサムの絵のなかに私達の明日への「通路」があるように思うのは僕だけではないだろう。
 

 三十年前に山尾三省さんと植えたぶどうの木が新芽をつけた。
三省さんが亡くなる一年前に頂いた「親和力」という詩集が頭をよぎった。
詩集のあとがきにこう書いてある。
 「親和力」というタイトルは、ゲーテの同名の小説をそのまま使用したのですが、原題を直訳すれば、「選ばされた血脈性」という意味になります。
 世界に向き合ってる私達が、その森羅万象の中から自分の愛(生き方)の対象となるなにものかに出遭い、それを選びとるのは、実は自分の意思を超えた摂理によるものだと、ゲーテは考えたのです。私達がなにかの対象に、まるで同じ血脈のものであるかのように愛を感じさせられてしまう、その不可思議な力を、「選ばされた血脈性」、つまり親和力と呼びました・・

                親和力

ミヤマカラスアゲハは アザミの花が好きだ

アザミの花は ミヤマカラスアゲハが好きだ

黒いミヤマカラスアゲハが 紅いアザミの花にとまって

その蜜をとっている姿は

それゆえ

この世のものとも 思えないほどに 美しい

ぼく達がアザミの花で あれば

ミヤマカラスアゲハは 必ずやってくるし

ぼく達が ミヤマカラスアゲハであれば

アザミの花は 必ずそこに咲いている

世界と ぼく達の人生との この必然の関係を

親和力ー選ばされた血脈性ーと呼ぶ


                      山尾三省



つづく     
                                    高橋秀夫   2013.4.20
[PR]
by hidesannno | 2013-04-29 22:20
夢を編む6
 夢を編む 6                    高橋秀夫




  土ヨリ生ジ 土ニ帰ス -いのちのゆめー


 神戸のポートアイランドに行く機会があった。18年前の震災の時、液状化して大変だったところだ。そこは、その昔「山、海に行く」と言われ、六甲山の土で埋め立てられた海の人工島だ。
 削られた山肌に新たな町ができ、人工島に遊園地や工場ができ、整備された道路に街路樹が規則正しく植えられ、葉を落とした木々はいのちを失くした無口な造花のように見えたのは失礼だろうか。
 宮沢賢治の童話(狼森と笊森、盗森)にある「ここへ畑起してもいいかぁ」「いいぞぉ」と山に伺いを乞うつつましい男たちの姿と森との問答とは違う人間の様が思い浮かんでくる。
 このポートアイランドのように埋め立て地といわれる所は日本の領土の0.5%にあたるといわれるそうだ。そして、多くはゴミを埋めて造られたという。東京湾岸は夢の島を始め人間の排泄物でつくられてきた。東北の震災でのおびただしい液状化は今も深刻な事態である。
 私達が考える時間など及ばない自然の生態系が生んできた大地とはほど遠いものであることが惨事で気づかされるのはあまりににも皮肉な極みである。

 ゴミの問題は石油製品などない江戸時代から悩みの種であったようだ。花のお江戸からのゴミの処分はそれこそ河川、海への投棄、その惨状から埋め立ての人工島が造られていったと聞きます。
しかし、日本では生ごみ、糞尿は作物の肥料として使っていた知恵はさすがである。
それこそ、ヨーロッパでは「ガーディ・ロー(そら、水がいくぞ)」と叫んで糞尿を道に放っていたというから大変なことだ。
 僕が小さい頃はまだまだ肥溜めなるものが残っていて柄杓で畑にまく風景は記憶にある。
間違って、落ちようもんならそれこそ一大事。鼻をつまんで走り抜けた思い出がある。もちろん、大正時代に化学肥料が作柄向上施策で登場してからはめっきり減少していった「肥料」で、今では皆無に近いことでしょう。
田舎の香水と呼ばれたなつかしき田園風景である。

 有機農業なるものが現われ、鶏糞、豚ぷん、牛糞が使われたが人糞はひのめをみず汚物として処理されるようになっていった。循環型生活スタイルの江戸の知恵は人智の公衆衛生感と身勝手な美意識によって有効利用されていたサイクルは消えていった。まあ、そう単純な問題だけではないと思うが。
 たしかに、紙は捨てないでという便所が山村に行った時あった。移動式で溜まるとそれを発酵させ肥料として使っていたのでしょう。

 奈良に来て2,3年だが畑を借りて素人百姓していたことがある。
八百屋のお客さんから生ゴミを集め、堆肥にして野菜を作った。
生産ー消費ー生産と暮すことの実感の試みでした。
それはお客さんの台所から野菜の名残りが戻ってきて、土に戻り、そして、また食べ物として結実してゆく。
 糞尿とはいかないが目に見える関係が食卓や畑を楽しい広場にしたものでした。
 ただ、うまく野菜づくりが出来なかった、僕の技術的問題も大いにあったが。
それでも、どのお客さんも大事にそして、丁寧に料理ししてくれたことは何よりなことでした。
 土からできたものが人の手をめぐり、また、土に戻り、そして繰り返される。
このことは消費して消えていく直線的な方向ではなく、円を描く生命のリズムに似たものであったような気がしていました。。
それは、みんな「人間家族」って感じでしたね。


 生ゴミなど燃やせるものはまだ何とかなる。しかし、今はそうはいかない。ビニール製品、化学合成製品、朽ちた瓦礫、燃やしたら猛毒ダイオキシンを撒き散らすモノ・・便利で安易な生活器具、ネジ一つ取れたら捨ててしまい、直すより新しいもの買った方がお得と勧められ使い捨ててしまう。
リサイクル法ができて簡単には捨てられなくなったが、お金をちょっと出せばゴミ問題の加害者から猶予される。むしろ、これを埋めて遊園地ができると「夢の島」伝説を持ち出す。

 60年代に始まった都市の「ゴミ戦争」は終息することなく今もなお続いている。
そして、ついに全く手に負えないゴミに私達は直面している。

 核のゴミである。

 地下深く埋める計画が有力と称されている。
 現代版「夢の島」になるであろうか。



 緑の草木で縁取り、道の街路樹にどんなお花が咲くかしら。

 風とお話する花かしら。

 黒い無口な花かしら。

 蝶ちょに蜜をあげるかしら。

 夏の日陰にベンチができて、どなたが口笛吹くかしら。

 秋に成る実はあるかしら。

 冬に巣箱に暮す小鳥はどこからくるかしら。

 春にポキリと落ちました。

 いのちのゆめが落ちました。


                            2013.2.20  ひで

 



 
[PR]
by hidesannno | 2013-02-21 06:36
忘機
夢を編む 5

         忘機~遊バザル者 喰フベカラズ~      高橋秀夫

 心を亡くすと書いて多忙の忙。
 亡くした心と書いて忘却の忘。

忙しくしていると何か大切なものを見落としていたり、置き去りにしているような気になることがしばしばある。そして、そのことが意外なことを引き起こすこともある。
幼子のさびしい仕種。
年老いた母のつらい吐息。
目の回るわが身のつめたい背中はそんな瞬間を気づきようがない。
ココロを亡くした忙しい時に・・。
 そして、幼子は無表情に乾いた涙をながし、老婆は冷たくなった髪をとく。
気づいた時はすでに遅い。もちろん、そのことは忙しい時ばかりではない。時間をもてあましているときでも見逃したりすることもある。
要はココロの目の在処(ありか)だ。
ココロの目とは、自分を見つめる目であり、自身の内実、真実でもある。
 いつだったか、地方にいる息子から電話があって、その時、ちょうど店の片付けで手が放せなく、忙しくしていたので「あと、あと」と言ったところ、電話をとりついた連れ合いに「忙しいってココロが無いってことだよ」と息子がぽつりと言った。と、あとで聞かされて、どきっとしたことがあった。
 その時、本当に手が放せななかったわけでもなく、ココロの目の在処(ありか)に余裕がなかったのである。電話の用件はたわいのないことだったようだが、問題は用件ではなく、僕と息子が繫がらなかった「キャッチボール」にあったのだ。

 誰もが毎日忙しく、働いている。僕らの商売も暇であったらそれは辛い。かといって、わけのわからないほど忙しかったらそれも問題だが、立ち働くうえでは、小気味良い時間の流れは良いものである。
 しかし、大体仕事で忙しいという時というのは疲れるものだ。子どものように何か遊びに夢中になっている様子とは少々違う。
 いや待てよ。
最近、口をとがらかして夢中になってる子どもの姿など見かけないではないか。

 ヒュウロー ヒャウロー
 僕たちが子どもだった頃
 鳥になることも
 犬と話もできた

 僕たちが子どもだった頃
 空になることも
 海になることもできた

 僕たちが子どもだった頃
 道路に描いた汽車に乗って
 旅することもできた
 
 僕たちが子どもだった頃
 太陽にあいさつをし
 月に願いをかけ
 星のワッペンを手に入れることもできた 

 こっそり
 雲にうちわけ話もできた

  
  木登りしたことがある子ども10人に4人
  蝶や虫を追いかけたことがある子ども10人に3人
  中学生の7割が塾に通い
  携帯で寸時のバトルゲーム
  てんとう虫をだんご虫といい
  みみずをへびの赤ちゃんという
  深夜の自販機に羽虫と囲む缶コーヒー
  今日、遊べる?
  うん、10分ある


 ヒュウロー ヒャウロー
 僕たちが大人だった頃
 ひとつの風が巻き起こっていた

 小刻みに決められた時間割の中で、君達は社会通念を覚え、言葉の使い分けを身に付ける。
そう、ふくれるな。それは、君達のせいではない。それが、今なんです。

 「忘機」、時を忘れるほど何かに夢中になる様という意味と友人から聞いた。
李白の言葉である。
 現代の子ども達の時間割の中では、道草や遠回りはタブーなのだ。いやいや、それは子ども達ばかりじゃない。君達のパパもママもおじさん、おばさんもそうなんだ。
 無心に地べたにしゃがみこんで蟻の行列を眺める少年も、クローバーを摘む少女もいない。
公園は雑草で囲まれ、除草剤散布の立て看板。
ベンチに座っているのはくたびれた君たちのパパ。

 そうだね。
 木登りたって木なんぞないな。林も森も遠い観光地。
 そうだね。
 土手も小川もコンクリートの暗渠。
 ほらほら、君の足元。
 暗渠の小川にザリガニを追うパパがいるよ。
 ほらほら、君のうしろ。
 電信柱にスカートめくりで泣きべそのママがいるよ。
 さあー
 玄関のお話しない造花の花をつめ草でこさえた花束にしょう。
 さあー
 どこまでも歩いて、歩いて青い鳥の住む町をさがしに行こう。

 もし、明けないままの暗い夜が来た時は無心に窓を拭き、水の音のなかのぞうきんになろう。
何も思わず、何も考えず。ただ黙々とである。
水のなかのぞうきんになぅたら、何もかも空っぽ。、時間も空っぽ。
空っぽの空っぽだけ・・・になる。

    忘機為り

 静かな朝に
 ぞうきんを洗う
 ただそれだけのことであるが
 その時すでに
 こころはこころとして
 身は身として
 わたくしとなる

 静かな夜に
 ぞうきんを洗い、そして、水をきる 
ただそれだけのことであるが
 その時すでに
 こころはこころとして
 身は身として
 わたくしとなる

 一日の終わりに
 ぞうきんを洗い、そして、水をきる
 ただそれだけのことであるが
 その時すでに
 こころは洗われ
 身は 空っぽとなり
 わたくしという真実になる

 一日の終わりに
 考えることも
 思い残すこともなく
 無心にぞうきんを洗い、水をきる
 ただそれだけのことであるが
 それはわたくしという時間を
 洗い
 清め 
 空っぽのわたくしにになる

 時よとまれ 君は美しい
 遊バザル者 喰フベカラズ
 と、花々がうたう
[PR]
by hidesannno | 2012-12-18 03:28
食べられるという規格
「食べられるという規格」

70年代の権力紛争が静まり、大量生産、大量消費を促す時代に、人間の欲が生み出した排泄物は、川を埋め、山を削り、海を汚しました。
そんな時代の加担者たる一員になれない者たちがいた。
コンクリートに埋め尽くされ、ビルはどこまでも高く、アクセルをふかせば、スピードは限界さえない・・・。 
 自分で持てるモノと歩く速さの暮らしを求め、土の匂いのする仕事を取り戻そうと考え、山村に足を運び、土を耕すことを学ばして頂きました。
そこで、出来た野菜を町角で売り始める。その野菜の姿は、市場にならぶものとは、ずいぶん違っていた。
 泥付きの大根、曲がったきゅうり、大小さまざまの芋、人参、虫食いのキャベツ・・・。
そして、日本の風土に即した農法のため季節ごと、それぞれにふさわしいものがお蔭様で並びました。 規格も等級もできるだけ設定しない旬のたべものであります。

あえて言えば 「食べられるもの」 という規格であります。
出会ったお百姓の方々には、農薬・化学肥料に頼らず、風土を熟知した農民の代々伝わる栽培法を進める。
化学肥料ではなく、堆肥を積み、身近にある草木を上手に利用した栽培法を進める。
単作・大量生産ではなく、有畜複合農業の考え方を進める。
又、地域での共同作業(肥料作り=堆肥)も進める。
農業技術の意見交換もなされ、品質の向上に常に努力する。

生産(者)-流通(者)-消費(者)
という三身が明らかな信頼関係の中で農産物が流通した。
生産現場では、栽培記録が公表され、消費現場では、いつ、誰が、どんな風につくったものかが
わかるようにしました。

生産(者)ー消費(者)
という二者の関係で十分なのだが、流通(八百屋)というつなぎ手としての八百屋をおくことにより
継続的な安定供給を計る。
三者の合議は、価格、栽培方法、自然災害、凶作等による生活防衛のための防除(農薬投与)に関しても、公開討議され、三者が納得の上、流通することもあります。

ここで、大事にしてることは 「 人 」 というそれぞれの認識である。
「その人」の作ったもの、有機認証とはまたちがう、大きな信頼の規格がそのベースにあります。
これなくして、「有機流通」はあり得ないと考えております。
[PR]
by hidesannno | 2012-11-20 21:07
夢を編むその4
夢を編む その4
 
         やさしい革命 二

                                      高橋秀夫


 厳しい暑さが続いた夏も通り過ぎ、ガラス窓の葉陰も一つ二つと落ち,黄金色の稲穂が秋日を待っている。
 その葉っぱに変わって、へちまの実がのんびり軒先にぶらさがっている。
そして、何より嬉しいのは星のカタチのるこう草が咲き始めたことです。
子供の小指ほどの赤い花で夏の終わりと秋の初めに咲きます。
夏、小さなはしごのような葉を伸ばし、夏の大きな葉に隠れるように 蔓は空をめざす。
まるで風から季節を耳打ちされたように細いつるに蕾をはらみ、夏の終わりを待って、
秋になると花を付ける。
赤い星のカタチの花、朝ひらいて、昼には閉じてしまう。
一日草だから小さなひとつの花は短く咲いて終わる。決して一斉に咲かない。
土の妖精がつるのはしごを上るようにひとつふたつと息をふきかけられたように咲きます。
 その様をながめていると夏の陽ざしを和らげてくれたぶどうの葉やへちま、冬瓜の葉が枯れて落ちても少しもさびしくならないし、どこまでも高い空に向かって咲く花は気持ちのいい心をいっぱいにしてくれる真紅の花なのです。

 花が僕たちに問う。

「いつのころからあなたたちはそんなにせわしなく、いそがしくまいにちをおくるようになったのですか、と。」



 るこう草が咲いた
 
 小さな緑色のはしごをお供にして

 星のカタチをした赤い花が咲いた

 いちじるしい赤 深深と赤い

 イノチの花

 るこう草が咲いた

 ぼくのこころにるこう草が咲いた

 あなたのこころにるこう草が咲いた

 ぼくの心が登る

 てんとう虫と登る

 あなたを登る

 あなたと登る
  
 星の花束を抱えトコトコ登る



 花の問いに答えを探る。

 これまで、社会は人々に何を求めたのだろうか。
そして、人々は何を享受しえたのだろうか。
 ぼくの少年時代をふりかえってみよう。

昭和30年代。
「もはや戦後は終わった」と宣言され、めまぐるしい復活を遂げた日本の姿がそこにあった。
 人々の暮らしの様が急カーブを描いて変化した時であった。
変化は喪失と創造の上にあり、ひとつは近代化という破壊であったのかもしれない。
 その選択は激しく働きずくめる庶民の意思の現われと言われた。はたしてそうなのであろうか。
決してそうではないことは。歴史の襞に残る夥しい抵抗の痕跡が物語るが、民主主義の多数決は文字どうり喪失と創造、現実と真実で仕切られていった。

 電気洗濯機のうずまきを覗きこみ。テレビに力道山の反撃が写った時。
母は絶句し、父はひざに握りこぶしを作った。
家族の目は輝き、家はすみずみまで明るくなっていった。
父は「セイジ、ケイザイ」を語り、母は歌をおぼえた。
兄はバイクに乗り、ポマードをつけ、くわえたばこで格好つけ。
姉は赤い靴をはき、花柄のスカーフをして町に出かけた。
明かるい所にひとは集まった。
薄暗い部屋からかがやくネオンへと、羽虫のように。
 そんな現象はいたるところで起こっていたのでしょう。
そして、そのスピードは疾風のように。

 ひとり遊びに興じるぼくは指をナイフで切ってから保育所に預けられた。
中途入所のため気おくれ、近所の女の子に手を引かれ通った。そのことで男子から「男と女のマーメー人」とからかわれ、ついには女の子の手をふりきって保育所から逃げ出してきてしまった。
それから、小学校にあがるまで親戚にあずけられることになってしまう。
知らない町と知らない人。親戚の家では近くを流れる川を見に行くほかは家にとじこもってばかりであった。大人のお姉さんふたりとおばさんといる時間が多く。甘いお化粧の匂う部屋でさらにひとり遊びと無口な少年になっていった。
 はっきり覚えているのは一年して家に帰ってきた時、父をおじさんと呼んだことだ。
また、大人のおねえさんといつも一緒だったせいか妙にマセテ帰ってきたようでもあった。
地元の友だちとの一年のブランクは相当で、戻ってきてからメンチ、ベーゴマ、くぎさし、うまのりの技の体得には人一倍必死であった。

 電信柱が町で一番高かった時代のこと。

 空き地に積まれていた大きなマンホールは道の下に埋め込まれ、
水溜りのじゃりみちはアスファァルトになり、
エックス山は団地になり、
首つり山は公園になった。
 人々の暮らしの様が変るのにさほど時間はかからなかった。暮らしの道具は電化となり、テレビに映る外国、ステキな休日、麗しい男と女の物語・・どこまでも人々を魅了して止まなかった。
 冷蔵庫からミルクをそそぎ、飛び出すパンにハムエッグとコーヒー。ダンスホールにスカートが舞い、兄の部屋でレコードが響く。

 より早く、より高く、より美しく。

三角形のピラミット。中流になったと下を覗き、見上げては競ってよじ登る。
その先にあるという幸せと豊かな日々をめざし古尽くされたものを捨て、輝く明日を信じた。

 起きる思えば寝るもいや。
母の口癖だった。
家族のために働いて、働きづくめてぼくらを育てた。
戦争で肉親を失い、兄弟とも別れた。だから、平和に暮そうと働いた。
父よ、母よ。
あなたたちから僕は生まれた。それだけで十分尊い気持ちでいっぱいです。
ですから、もう働かなくてもいい。
そう思った時にはもうあなたたちはいない。
 家を明るく、暮らしを楽にしてきたあなたたちのささやかな願いが原子力の時代を作ったのではありません。
 近代科学の装置に囲まれた現代に生きる僕たちが慎重に注意深く考え直していけばきっと、まだ間に合うかもしれませんから。
 どうか、悲しまないでください。

 何をどれほど失ったかもわからないまま新しきものをポケットに詰め込んで豊饒を願ったのは歴史を刻んだ人間の性です。
 素手が鍬となり、こぶしがピストルになった人間の性ですから。
そろそろ、あなたたちが生まれた時代のふり捨てたココロに学ぶべき時ですから。
 時は、 まっすぐに突き進んでいるのではなく、輪のようにゆっくりとめぐるものであると多くの人が気づき始めている。、また、多くの人が 慎重に、注意深く暮らし始めようとしていますから。
 どうか、心配しないでください。

 
 土に集う

 月に深く

 朝露かがやき

 いつもの

 長ぐつの音

 風すこし



 注意深く、想像力をもって、愛おしく人を思い。
 木々を愛で、風を受け、水の流れをさわらず、雨をうけ、陽ざしを待ちましょう。
 ピストルになったわが手を素手にもどし、その手であなたの手をとって出かけましょう。
 おしゃべりなくちびるに静寂を呼び、やさしく接吻しましょう。
 変ること、変えることは本当は簡単なこと。
 さあー
 たいこをならし、こころに音楽を響かせましょう。


                             やさしい革命二  2012.10.18.
                              高橋秀夫







 
[PR]
by hidesannno | 2012-10-18 11:38
地方(じがた)流し
          地方流し  「飛び島の女」

 山形県酒田の港を出て西北に40キロ。

只、広々とした海の上におき忘れたように飛島がある。

 面積2.85平方キロほどのちいさな台状の島で、台地の下の渚のほとりの帯のような平地をしめて

、東側に勝浦、浦、北側に法木という三つの部落がある。台地の上は松を風垣にした畑が一面に

ひらけて、西から吹き付ける冬の風を防いで作物を作っている。

 人家は200戸ほど。それが200年程の間ほとんど変わっていない。時には157戸に減ったこと

もあったが、最近少し増えてきた。

これ以上の人は住めないので、あまった者はむかしから移住し、帰ってくる者はほとんどなかった。

それでいて、漁の時期には人手が不足して、どうしても若いものの手がいるので、毎年、本土の村

々からあまった子どもがあるともらってきて育て、労力の補いにした。

だから、どこの家にも一人や二人のもらい子のいない家はなかったもので、あと継ぎのない家は養

子にして、あとをとらせた者も少なくない。

 小さい島のわずかばかりの畑では食うものは不足ふそくがちであったから、秋から春にかけて、

ワカメやイカやその他残り物をとって干したり、、塩物にしてたくわえておいて。5月の田植えのは

じまる前に、それを船に積んで酒田や吹浦の港につなぎ、その背後の村々へ売ってまわった。

 売るといったところで、そうゆうものがほしい家へ置いてくるのである。それにはそれぞれ懇意な

村があって、そこへ出かけて行く。

 島の人達が持ってきた海のものが5月の田植えの大事なおかずになったのである。

この5月の船を五月船といった。


 島人はそうした海産物を農家にくばってしまうと、また島へ帰ってくる。

そして、秋まで海の稼ぎをする。

 それをもってちょうど秋の取り入れの済んだ後、また、平野の農家を歩いて、海産物の代償として

食料をもらって帰ってくる。

 これを、秋船といった。


 そんな時、農家で育てかねている子どもをもらってきたのである。

島ではもらい子で通っていたのであるが、大正のはじめ頃、酒田から島の取材にきた新聞記者が、

この子どもたちを南京小僧と書いた。


それから急に南京小僧と言う言葉が有名になり、わざわざ南京小僧を見に来る者もあるようになっ

た。

 しかし、別に変わった人間ではなかった。

  南京小僧と新聞記者が言ったのは、南京米袋で作った仕事着を着ている者があったからで、島

の貧しい者のなかには、南京米袋を仕事着に仕立てて着ている者は少なくなかった。

 もらい子たちもそうゆうものを着せられて成長したものがあった。

 しかし、もらい子だからといって、特別にいやしめられたり、過重な労働を強いられたのではなく、

みんな貧しく、忙しく働いていたのである。


 この島へ17世紀の末ごろから廻船が寄港するようになった。

日本海沿岸の諸平野でできた米を大阪や江戸へ輸送するために、多くの廻船が瀬戸内海地方

からやってくるようになった。

 そうしした船で風よけ波よけのちゃめに、この島かげに碇を下ろすものが多くなってきた。

 庄内平野は米どころであった。

その米を積み出すために酒田の港は栄えた。

しかし、西をうけているから、西風が吹くと海が荒れて、沖に船をとめておくことができない。

そこで、はるか沖合いにある飛島まで行って、その島かげに船をとめた。

酒田に入る船ばかりでなく、それから北へ土崎(つちさき)、能代(のしろ)、鯵か沢(あじかさわ)、

十三湊(とさみなと)、さらにその北の北海道へニシンやタラやコンブなどを積みに行く船もこの島

の近くで西風にあえば寄ってきた。


 そうした船を相手に、島には船宿が何軒もできた。船問屋ともいっている。

 船がやってくると、船問屋の若い者たちが一斉に磯船に乗ってこぎ寄せていき、

「よい あんばいでした。 お船はどちらですか」

と声をかける。

すると船の方では、越中なら、

「越中や、 越中や」

能登ならば、

「能登や、 能登や」

という風に答える。

 問屋の方にはそれぞれ、どこの船は何屋が得意先と決まっているので、その問屋のものが廻船   

へ登っていって、いろいろ世間話をし、

「手がすいたら おかへ あがりますように」

と挨拶しておいて帰る。そして、風呂をたき、もう一度磯舟で沖へ支度のできたことを知らせに行く。

 これを、風呂使いといった。

 船の方では留守番役を一人か二人残しておいて、他のものは伝馬にのって上陸し、風呂に入っ

て垢をおとす。

問屋では水夫たちに茶をだす。船頭は問屋のいろりのそばに座って主人と話している。

 さて、水夫たちの風呂が済むと、船頭に泊まるか、船に戻るかを聞く。

帰るといえば宿で一服してみんなで沖の船に帰るが、たいていは泊まることになる。

すると、水夫たちは船頭を残して帰る。そして、翌朝、大きなめしびつに飯を一杯入れて持ってく

る。島には米がないから、米だけは船から持参する。

そして、宿の方では酒や肴を出す。

酒好きの船頭ならば朝から酒を飲む。夕方には帰る者もあるが、風の都合が悪ければ、二日も三

日も休んでいくこともある。

 もとより、小さな島のことであるから、遊女のようなものはいない。

 帰るとき、別に勘定はしない。船頭の心次第でいくらかの金をつつんで、いろりのそばにおいて

くる。

なかには船に帰って飯炊きの若者に持たせてよこすこともある。

 問屋の方から風呂代や茶代を直接請求するのでないから、そのまま出航してしまうこともある。

そんな時には問屋の主人は若者たちに

「祝儀をもらってこい」

といいつける。

若者たちはあわてて磯船を漕ぎ出すのだが、船足が速くおいつききらぬこともある。しかし、そうゆ

うことは若者たちにとって恥なので、どんな苦労をしてでも漕いでいき、時には波の立っている海

を一里も二里も追いかけることがある。

 やっと、廻船に漕ぎ着けても、祝儀をくれとは言わない。乞食行為になるからで、島のものの誇り

を傷つける。

だから、ただ。

「お船 出航ですか」

という。相手が祝儀をくれるまで何回でもくりかえしていう。

たいてい、忘れているのだが、時にはからかいの気持ちあって、わざと祝儀をおいてこないことも

あるが、いわゆる食い逃げはしない。

 だから、廻船の方でも包み金を磯船に投げ込んでくれる。

そのご祝儀というのは明治30年(1897)ころに20銭か30銭であり、50銭出す船はまれであった。

ほんのわずかな金であったが、それでも島にとっては、また問屋にとっては大事な収入の一つで

あった。





 















 そうした船問屋のなかの一軒に、客扱いになれない嫁をもらったところがあった。

女は働き者であったが、島の漁家育ちで、べつに教養があったわけでもなかった。


 ある時のこと、得意先の船が何隻も同時にやってきて、女は台所でてんてこまいをして働いてい

た。

 若い嫁には男の子が一人いた。

やっと立って歩くほどの子であったが、忙しく立ち働く母の足元にもつれかかるようにして後を追い

回していた。

 座敷では船頭や水夫がそれを所在無く見つつ、ご馳走のできるのを待っていた。

 ご馳走といっても粗末なものであった。

さや豆の煮たもの、魚の煮たもの、その他、海藻をあえものにしたようなものだが、それをお皿に盛

るのではなく、大きな桐の葉をとってきて、それに盛り、箸をそえてだすのである。

 それは、島が貧しかったからか、さらにずっと昔からのしきたりであったのか。とにかく、島の人は

つつましく素朴で、船をこぎ寄せる人達も、そうした島の風物を愛していた。


 女は桐の葉を台所の流しのところで洗い、盛り合わせをするためのおかずをこしらえ始めた。

すると、子どもが板の間で大声で泣き出した。

 小便をしたのである。

母親は働く手を止めて、子どもを見た。

小便が板の間の上を流れていた。

 母親は、すぐに子どものむつきをはずして、その小便をふき、むつきは板の間の隅へ持っていっ

た。

 そして、手も洗いもせず、また、料理を始めた。


それを見ていた船頭たちは立ち上がって、用事ができたからといって船にかえっていった。

浜まで船頭を送り出た水夫たちもそのまま問屋には帰ってこなかった。

 若い嫁は、作り上げた料理を前にして途方にくれて、若者に頼んで、沖の船へ水夫たちを呼び

に行ってもらったが、幼児があるからと言って誰も来ない。

 そればかりではない。

 それから後、次々に入港してくる得意先の船の船頭たちも、その問屋へは寄りつかなくなってし

まった。

 問屋の家ではどうしたことかと驚きもし、困り果てて、得意先の船頭に聞いてみると、若い嫁がむ

つきで小便をふいた手で、そのまま料理をしたのを見たという話を島に来る前に、酒田の湊で聞

いたという。

 そうゆうことがあると、みな連絡しあって、廻船仲間に知れてしまう。

そのために、その問屋へ船が寄り付かなくなってきたのである。

 嫁に悪意があったのではない。

働き者のよい嫁である。それに子どももできている。

だが、その嫁がいたのでは船は寄り付かない。

 どうすることもできないので、親が庄屋の家に行って相談した。

すると、庄屋は離縁をすすめた。

問屋では嫁を里に帰した。

「わしに 離縁をされるような 罪があるのか。

わしが どんな悪いことを したというのか。

わけをゆうてくれ

わけをゆうとくれねば 家をば 焼くぞぇ」

 毎晩のように、女は問屋の前にきてはどなった。

その声を聞く度に、家の中にいる幼い子が母を慕って、火のついたように泣いた。

すると、

女は狂ったようにわめきたてた

 精一杯働いて、働いた末の離縁である。

思いあきらめることのできないわだかまりがあり、また、子供への愛着があった。

 問屋の家ではおそれをなして、また、庄屋の家に相談に行った。


「仕方がない 地方(じかた)流し にしょう」

と庄屋は言った。


 
 昔は」本土には思い罪人を島流しにする制度があった。

佐渡も隠岐も壱岐も五島も屋久島も、また、伊豆の沖の新島、三宅島、八丈島もそうした罪人を流

した島であった。

 ところが、島では罪人を本土に流す風習があった。

それは、刑死につぐ重い刑罰であった。

これを 地方流し といった。


 問屋の嫁は罪を犯したのでもない。家に火をつけたのでもない。

子供恋しさに、また、自分としては何ひとつ落ち度がと思う節もないのに、地方流しにされることに

なったのである。


 
 
 庄屋は島内三か村から一人づつ人夫を出させ、川崎船という磯船よりは大きな荷船に女を乗せ

て、本土にむかって漕がせた。

 女は船の上で地団駄をふんで泣いた。

「地方に行って、真面目に働いておれば、また、島へかえしてもらえることもあろうから・・」

と、船こぐものは慰めようとしたが、女は耳をかさないで、果ては、船べりにすがりついて泣いた。

「何ぼ泣いてもわめいても、わめけばわめくほどお前の損じゃ・・」

終いには、男たちも不機嫌になって、女を叱ったが、それも効き目がなかった。

 やっと、船は吹き浦の港へついた。

船べりにしがみついている女の手を放し、陸へ無理矢理に上げて、

「どこへでも いくがええ・・」

と言って、三人の者は急いで沖に漕ぎ出した。

 女は長い間、遠ざかる船を見て、砂浜の上でわめき続けていた。


それっきり、女の消息は絶えてしまった。


















 こうして、一年が過ぎ、二年が過ぎた。

その後も、その問屋には船は寄り付かず、おちぶれていく一方だった。

問屋には女手がほしい、つくづく思った。

そして、船問屋は流した女のことはあきらめて、後妻をもらうことにした。

 村のはずれに才気ある美しい女がいた。

素性知らずの女であるが、声もよく、歌も踊りも上手く、その上三味線もひくことができた。

 しばらくして、女は船問屋の嫁になった。

港に元の得意先の船が入ると、女は自分で磯船の櫓をおして、船に乗って船頭と話し合い、自分

の家に連れてくるようになった。

美人である上に、もてなしもよい、そこで、船頭たちもまた、この船問屋を訪れるようになった。

 何年経っても女は以前の身の上話は一切しなかった。

船問屋もまた、問わなかった。


  地方流し   宮本常一「女の民俗誌」より
           構成 高橋秀夫         2012.9.24





           
[PR]
by hidesannno | 2012-09-24 22:48
夢を編むその3 やさしい革命
夢を編む その3


              
               やさしい革命

 やさしいという言葉には二通りの意味があり、僕たちはそれぞれに使いわけてきた。
ひとつは「優しい」、もうひとつは「易しい」。
 70年代終盤しゃべるうまさより黙るうまさがこれからの時代と喧騒の市街戦から風に舞う風媒花のように人垣は消えていった。消えたというよりどこかに戻っていったと表現したほうがいいかもしれない。バックパッキングの若者はヒッチハイクの長距離トラックで穏やかに暮す村をめざした。「優しさ」への旅。それは中央ではなく、辺境へ。強いものではなく弱いものへ。大河よりせせらぎへと向かうことであった。、その地と、そこに生活してきた人々に寄り添う旅である。
 詩人の山尾三省さんは源郷への旅といい、民俗学の姫田忠義さんはその旅を他火と呼んだ。

 ぼくの旅はと言えば、どさまわりの人形劇団がひとつの兆しであった。
その劇団は年に一度訪ねる小児病棟があった。心臓に重い疾患を抱え、生きられる時間は限られている子供ばかりのところだ。心臓疾患だから極度に興奮したりすることは病気を悪化させるため、なるべく静かに暮さなくてはならない。人形劇といえば子供たちの心を高揚させるのでここではご法度なものだが、子供たちの笑顔はそのご法度を解き放ってしまった。
わずかな時間だがこの慰問がぼくのこころのものさしの原型のようになった。こころのものさしというのは物事を自分はどのように考えるかということです。つまり、ここで学んだのは生きること、生きているということの根源的なことが一体何なのかという問いでありました。
次の年に訪ねると見知った子供の姿がそこにはないという現実。その時に喚起された問いはそれからずっとぼくの心にある。
 この子供たちからの問いはその後、障害者との出会いに引き継がれていった。
40年程前のことですから今の状況とはずいぶん違いますが、そのころは隔離収容施設が福祉行政の主流で僕が勤めた施設は重度心身障害児と呼ばれ、心身の障害に疾患を併せ持つ医療病棟色の濃い施設でした。大量収容ですから障害の程度はいろいろで常に酸素ボンベを抱えている子供から知的障害の子供たち、車椅子で詩を綴る二十歳を越す者も暮す施設でした。
 この施設で彼らから何が奪われていたかとというと、所有すること、選択すること、所属することでした。この三つは人が人たる要素であるのですが、そのことが極力抑えられていました。
 職員はといえば秋田おばこという集団就職の天使と呼ばれた風潮が受け継がれ、人員不足のなかで身体を壊していく職員が後を絶たない現状でした。

 強いものでなく、弱いものに寄り添うという自分の志がこの福祉現場で地団駄を踏むことになっていった。労働組合の書記長となり、ストライキをし、処遇改善に奔走した。が、自問自答は深まる一方であった。胃潰瘍になり、血を吐いた。
 そんな時、ひとりの車椅子の女性から相談を受けた。施設を出て、実家からも自立して町で暮したい。一人では難しいので手伝ってほしいと。僕らは四人の仲間で彼女の「家出」を支援することになった。
 が、彼女の家出は失敗に終わった。ぼくたちは誘拐の罪で告訴され、施設を懲戒解雇となった。
彼女には意思決定する能力、知能もないというのがその理由であった。(この詳しいいきさつはまたの機会にと思っていますが)この出来事は車椅子の国会議員と障害者団体の抗議で誘拐罪と懲戒解雇は撤回された。
 この頃、福祉現場での労働者弾圧が相次いだ時であった。

 ぼくたちは施設を辞めた。

 向かう先は?
 町はコンクリートでまぶしい
 人はわき目も振らずに足早に行き交う
 土の匂いのする仕事をしょうという山尾三省さんのメッセージが目にとまる
 戸板の上に泥付きの大根とふぞろいのじゃが芋が並んでいる 
 選ばないで
 この野菜は同じ畑で出来ました
 と
 やさしさって
 これだよ
 人も色々といて
 みんな違う
 やさしい関係って
 簡単なこと

   

             やさしい革命       高橋秀夫
 

 

 

 
[PR]
by hidesannno | 2012-08-22 05:15
夢を編む2 土
夢を編む   その二


             「土」            

                            高橋秀夫


 愛犬が死んだ。
 18年、毎日店の前に出ては、優しげなまなざしで行き交う人達の心をホッコリさせていた愛犬がこの春静かにこの世を去った。みんなによくよくなでられていたせいか、毛並みはつやつやと光り、最期の時まで黄金色であった。
 まるで、通天閣のビリケンさんを思わせた。
 その看板犬が居なくなって、なにやら手持ちぶささなでぽっかり穴ぼこができたみたいに感じて仕方がない。喪失感もあるだろうが、朝、夕の散歩、ごはんの支度など世話することが日課のように、それも18年の続けてきたことだからそう感じるのでしょう。
 それは、行き帰りにあいさつをしてきた方々もそんな風に感じているのでしょう。

 年を経て「用事」がひとつ、ふたつと減っていくのは人の世の常であろうが、やはりさびしいものである。重たく煩わしいとさえ思っていたポケットの荷物が実際無くなってみるとおろおろと妙な執着を覚えるものである。
 そして、ポケットを押さえても残るのは思い出だけである。

 私達は自分のする役割、自分ものという所有、善いか否か、好きか嫌いかを自分で選択することをもって社会、家、などに属しているという。そのことで何億もの人々のなかで自分(私、自己)が自分自身であると自覚し、他者と関係していく際の要素といわれる。
 用事が無くなっていくことはその原則のような日常生活の時間が社会性を失っていくことの現れであるようだ。もちろん、そこで次へと受け継がれていくことが大事なことである。それは連綿とつながってきた歴史の最前の者としての役割であると思います。
 言い換えれば、自己とは集団,社会の中のひとつの要素であるわけです。

 僕は旧暦でいう還暦である。サラリーマンなら停年となる歳だ。
仕事という「用事」がなくなり、第二の人生と呼ばれる年、たそがれの第四コーナーをまわりながら自分の人生を反芻する時である。

 つもりつもったメタボの腹を何とかしょうと汗を流すご同輩の姿。
ぎこちないジーパン姿は、ニッポンを豊かにしてきた戦士とは思えないが、昔ばなしをたぐり寄せては、孫に聞かせる善事を探す。

 昭和余年に咲きし花
 黒く染まりて散りぬるを
 自戒遅しや
 坂の家路

 現代の平均寿命からすると、人はこの世に生を受けると、30000日ほどの時間(生命)をもらう計算になる。もちろん、地虫やペンペン草のように踏みつけられるという不測の事態がない場合であるが。僕は大半を使い、残されている日は5,6千ほどだ。その与えられた時間を何に費やしたかは人それぞれだろう。
 善事を探すご同輩。善事と悪事のものさしさえ不鮮明な世にあって、ただただその日その日を繰り返し、生きている感じを探ししていた日々。いつしか隣の垣根の高さを気にしながらより高くより高くと。いつか生きてる感じがわかる日がと全力疾走してきた。そんな大方のぼんやりした幸福感をつつんでいったのが機械仕掛けの「便利な生活」と「豊かな将来」だった。 
 それは、いのちの長さまで延ばし、ニッポンは世界一、二の長寿国となった。私が生まれた当時(1951年)からでも20年近くも寿命を延ばしことになるから
自分もその恩恵かと、少々複雑であるが。もちろん、近代科学は歴史に誇れる多くのことも生み出してきた。

 一体「生きてる感じ」とは何なのでしょう。
 本当の「幸い」とは何なんでしょう。
そんなことを考えているうちに残された五、六千の時間は無くなってしまいそうだ。
 
 土で創られた我ら人間。素手は鍬となり弓となり、プロメテウスの火は煮炊き
から、やがて殺戮の兵器を人間は作った。機械仕掛けの道具は時間さえ創り出し、その時間はさらにおびただしいモノを生み出してきた。
 プロメテウスの火を私達は自分たちでさえ、始末できない原子力の火まで作り上げてきてしまった。そして、その中で「いのち」を「時間」を手に入れたつもりであった。
 しかし、近代科学の作り出した怪物と私達の排セツ物は美しい山野を空を海と変ぼうさせてきた。
 海が青かったこと、空に数えきれない流星がとびかったこと、川にキラキラ光る魚がいたこと。僕たちのあとににくる者たちは絵本にとじられたその風景を夢物語りとして耳をかたむける。私達が立ち向かった自然の逆襲をこれからくる者たちに残してしまったことにならないか。

 パンドラの箱から飛びだした病気、貧困、争い、犯罪、憎悪、嫉妬、老い・・箱に残ったわずかな希望を糧に、人は現代までいのちをつなげてきた。もし、その中のひとつでも箱から出なかったら、私達の歴史は、どんなだったのだろう。
 想像もできない世界だが、きっと、私達の存在さえ、なかったかもしれない。
 
 取りもどせるものがあるか。
 間に合うか。

 おろおろしている昭和余年のご同輩よ。
私達はもともと土から生まれたのだ。
私達が作ったあらゆるものは、土の上に作り上げたものだ。
 その土の思想を刻もう。


  町のコンクリートをはがせ

  そこにいのちの種をまけ

  あなたのコンクリートをはがせ
 
  そこにいのちの種をまけ

  わたしのコンクリートをはがせ

  そこにいのちの種をまけ

  わたしたちのコンクリートをはがせ

  そこにいのちの種をまけ

  やがて
 いのちの絆になれ
  


 


2012年6月15日 雨の夜に
[PR]
by hidesannno | 2012-06-17 22:54
  

随筆と詩歌
by hidesannno
プロフィールを見る
画像一覧
カテゴリ
全体
未分類
お気に入りブログ
おいしいお店 八百屋ろ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
ブログパーツ
最新の記事
あの夏 この夏
at 2013-07-22 23:42
夢を編む その8  「親和力Ⅱ」
at 2013-06-21 07:00
夢を編むその7  親和力
at 2013-04-29 22:20
夢を編む6
at 2013-02-21 06:36
忘機
at 2012-12-18 03:28
外部リンク
ファン
ブログジャンル
画像一覧