食べられるという規格
「食べられるという規格」

70年代の権力紛争が静まり、大量生産、大量消費を促す時代に、人間の欲が生み出した排泄物は、川を埋め、山を削り、海を汚しました。
そんな時代の加担者たる一員になれない者たちがいた。
コンクリートに埋め尽くされ、ビルはどこまでも高く、アクセルをふかせば、スピードは限界さえない・・・。 
 自分で持てるモノと歩く速さの暮らしを求め、土の匂いのする仕事を取り戻そうと考え、山村に足を運び、土を耕すことを学ばして頂きました。
そこで、出来た野菜を町角で売り始める。その野菜の姿は、市場にならぶものとは、ずいぶん違っていた。
 泥付きの大根、曲がったきゅうり、大小さまざまの芋、人参、虫食いのキャベツ・・・。
そして、日本の風土に即した農法のため季節ごと、それぞれにふさわしいものがお蔭様で並びました。 規格も等級もできるだけ設定しない旬のたべものであります。

あえて言えば 「食べられるもの」 という規格であります。
出会ったお百姓の方々には、農薬・化学肥料に頼らず、風土を熟知した農民の代々伝わる栽培法を進める。
化学肥料ではなく、堆肥を積み、身近にある草木を上手に利用した栽培法を進める。
単作・大量生産ではなく、有畜複合農業の考え方を進める。
又、地域での共同作業(肥料作り=堆肥)も進める。
農業技術の意見交換もなされ、品質の向上に常に努力する。

生産(者)-流通(者)-消費(者)
という三身が明らかな信頼関係の中で農産物が流通した。
生産現場では、栽培記録が公表され、消費現場では、いつ、誰が、どんな風につくったものかが
わかるようにしました。

生産(者)ー消費(者)
という二者の関係で十分なのだが、流通(八百屋)というつなぎ手としての八百屋をおくことにより
継続的な安定供給を計る。
三者の合議は、価格、栽培方法、自然災害、凶作等による生活防衛のための防除(農薬投与)に関しても、公開討議され、三者が納得の上、流通することもあります。

ここで、大事にしてることは 「 人 」 というそれぞれの認識である。
「その人」の作ったもの、有機認証とはまたちがう、大きな信頼の規格がそのベースにあります。
これなくして、「有機流通」はあり得ないと考えております。
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# by hidesannno | 2012-11-20 21:07
夢を編むその4
夢を編む その4
 
         やさしい革命 二

                                      高橋秀夫


 厳しい暑さが続いた夏も通り過ぎ、ガラス窓の葉陰も一つ二つと落ち,黄金色の稲穂が秋日を待っている。
 その葉っぱに変わって、へちまの実がのんびり軒先にぶらさがっている。
そして、何より嬉しいのは星のカタチのるこう草が咲き始めたことです。
子供の小指ほどの赤い花で夏の終わりと秋の初めに咲きます。
夏、小さなはしごのような葉を伸ばし、夏の大きな葉に隠れるように 蔓は空をめざす。
まるで風から季節を耳打ちされたように細いつるに蕾をはらみ、夏の終わりを待って、
秋になると花を付ける。
赤い星のカタチの花、朝ひらいて、昼には閉じてしまう。
一日草だから小さなひとつの花は短く咲いて終わる。決して一斉に咲かない。
土の妖精がつるのはしごを上るようにひとつふたつと息をふきかけられたように咲きます。
 その様をながめていると夏の陽ざしを和らげてくれたぶどうの葉やへちま、冬瓜の葉が枯れて落ちても少しもさびしくならないし、どこまでも高い空に向かって咲く花は気持ちのいい心をいっぱいにしてくれる真紅の花なのです。

 花が僕たちに問う。

「いつのころからあなたたちはそんなにせわしなく、いそがしくまいにちをおくるようになったのですか、と。」



 るこう草が咲いた
 
 小さな緑色のはしごをお供にして

 星のカタチをした赤い花が咲いた

 いちじるしい赤 深深と赤い

 イノチの花

 るこう草が咲いた

 ぼくのこころにるこう草が咲いた

 あなたのこころにるこう草が咲いた

 ぼくの心が登る

 てんとう虫と登る

 あなたを登る

 あなたと登る
  
 星の花束を抱えトコトコ登る



 花の問いに答えを探る。

 これまで、社会は人々に何を求めたのだろうか。
そして、人々は何を享受しえたのだろうか。
 ぼくの少年時代をふりかえってみよう。

昭和30年代。
「もはや戦後は終わった」と宣言され、めまぐるしい復活を遂げた日本の姿がそこにあった。
 人々の暮らしの様が急カーブを描いて変化した時であった。
変化は喪失と創造の上にあり、ひとつは近代化という破壊であったのかもしれない。
 その選択は激しく働きずくめる庶民の意思の現われと言われた。はたしてそうなのであろうか。
決してそうではないことは。歴史の襞に残る夥しい抵抗の痕跡が物語るが、民主主義の多数決は文字どうり喪失と創造、現実と真実で仕切られていった。

 電気洗濯機のうずまきを覗きこみ。テレビに力道山の反撃が写った時。
母は絶句し、父はひざに握りこぶしを作った。
家族の目は輝き、家はすみずみまで明るくなっていった。
父は「セイジ、ケイザイ」を語り、母は歌をおぼえた。
兄はバイクに乗り、ポマードをつけ、くわえたばこで格好つけ。
姉は赤い靴をはき、花柄のスカーフをして町に出かけた。
明かるい所にひとは集まった。
薄暗い部屋からかがやくネオンへと、羽虫のように。
 そんな現象はいたるところで起こっていたのでしょう。
そして、そのスピードは疾風のように。

 ひとり遊びに興じるぼくは指をナイフで切ってから保育所に預けられた。
中途入所のため気おくれ、近所の女の子に手を引かれ通った。そのことで男子から「男と女のマーメー人」とからかわれ、ついには女の子の手をふりきって保育所から逃げ出してきてしまった。
それから、小学校にあがるまで親戚にあずけられることになってしまう。
知らない町と知らない人。親戚の家では近くを流れる川を見に行くほかは家にとじこもってばかりであった。大人のお姉さんふたりとおばさんといる時間が多く。甘いお化粧の匂う部屋でさらにひとり遊びと無口な少年になっていった。
 はっきり覚えているのは一年して家に帰ってきた時、父をおじさんと呼んだことだ。
また、大人のおねえさんといつも一緒だったせいか妙にマセテ帰ってきたようでもあった。
地元の友だちとの一年のブランクは相当で、戻ってきてからメンチ、ベーゴマ、くぎさし、うまのりの技の体得には人一倍必死であった。

 電信柱が町で一番高かった時代のこと。

 空き地に積まれていた大きなマンホールは道の下に埋め込まれ、
水溜りのじゃりみちはアスファァルトになり、
エックス山は団地になり、
首つり山は公園になった。
 人々の暮らしの様が変るのにさほど時間はかからなかった。暮らしの道具は電化となり、テレビに映る外国、ステキな休日、麗しい男と女の物語・・どこまでも人々を魅了して止まなかった。
 冷蔵庫からミルクをそそぎ、飛び出すパンにハムエッグとコーヒー。ダンスホールにスカートが舞い、兄の部屋でレコードが響く。

 より早く、より高く、より美しく。

三角形のピラミット。中流になったと下を覗き、見上げては競ってよじ登る。
その先にあるという幸せと豊かな日々をめざし古尽くされたものを捨て、輝く明日を信じた。

 起きる思えば寝るもいや。
母の口癖だった。
家族のために働いて、働きづくめてぼくらを育てた。
戦争で肉親を失い、兄弟とも別れた。だから、平和に暮そうと働いた。
父よ、母よ。
あなたたちから僕は生まれた。それだけで十分尊い気持ちでいっぱいです。
ですから、もう働かなくてもいい。
そう思った時にはもうあなたたちはいない。
 家を明るく、暮らしを楽にしてきたあなたたちのささやかな願いが原子力の時代を作ったのではありません。
 近代科学の装置に囲まれた現代に生きる僕たちが慎重に注意深く考え直していけばきっと、まだ間に合うかもしれませんから。
 どうか、悲しまないでください。

 何をどれほど失ったかもわからないまま新しきものをポケットに詰め込んで豊饒を願ったのは歴史を刻んだ人間の性です。
 素手が鍬となり、こぶしがピストルになった人間の性ですから。
そろそろ、あなたたちが生まれた時代のふり捨てたココロに学ぶべき時ですから。
 時は、 まっすぐに突き進んでいるのではなく、輪のようにゆっくりとめぐるものであると多くの人が気づき始めている。、また、多くの人が 慎重に、注意深く暮らし始めようとしていますから。
 どうか、心配しないでください。

 
 土に集う

 月に深く

 朝露かがやき

 いつもの

 長ぐつの音

 風すこし



 注意深く、想像力をもって、愛おしく人を思い。
 木々を愛で、風を受け、水の流れをさわらず、雨をうけ、陽ざしを待ちましょう。
 ピストルになったわが手を素手にもどし、その手であなたの手をとって出かけましょう。
 おしゃべりなくちびるに静寂を呼び、やさしく接吻しましょう。
 変ること、変えることは本当は簡単なこと。
 さあー
 たいこをならし、こころに音楽を響かせましょう。


                             やさしい革命二  2012.10.18.
                              高橋秀夫







 
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# by hidesannno | 2012-10-18 11:38
地方(じがた)流し
          地方流し  「飛び島の女」

 山形県酒田の港を出て西北に40キロ。

只、広々とした海の上におき忘れたように飛島がある。

 面積2.85平方キロほどのちいさな台状の島で、台地の下の渚のほとりの帯のような平地をしめて

、東側に勝浦、浦、北側に法木という三つの部落がある。台地の上は松を風垣にした畑が一面に

ひらけて、西から吹き付ける冬の風を防いで作物を作っている。

 人家は200戸ほど。それが200年程の間ほとんど変わっていない。時には157戸に減ったこと

もあったが、最近少し増えてきた。

これ以上の人は住めないので、あまった者はむかしから移住し、帰ってくる者はほとんどなかった。

それでいて、漁の時期には人手が不足して、どうしても若いものの手がいるので、毎年、本土の村

々からあまった子どもがあるともらってきて育て、労力の補いにした。

だから、どこの家にも一人や二人のもらい子のいない家はなかったもので、あと継ぎのない家は養

子にして、あとをとらせた者も少なくない。

 小さい島のわずかばかりの畑では食うものは不足ふそくがちであったから、秋から春にかけて、

ワカメやイカやその他残り物をとって干したり、、塩物にしてたくわえておいて。5月の田植えのは

じまる前に、それを船に積んで酒田や吹浦の港につなぎ、その背後の村々へ売ってまわった。

 売るといったところで、そうゆうものがほしい家へ置いてくるのである。それにはそれぞれ懇意な

村があって、そこへ出かけて行く。

 島の人達が持ってきた海のものが5月の田植えの大事なおかずになったのである。

この5月の船を五月船といった。


 島人はそうした海産物を農家にくばってしまうと、また島へ帰ってくる。

そして、秋まで海の稼ぎをする。

 それをもってちょうど秋の取り入れの済んだ後、また、平野の農家を歩いて、海産物の代償として

食料をもらって帰ってくる。

 これを、秋船といった。


 そんな時、農家で育てかねている子どもをもらってきたのである。

島ではもらい子で通っていたのであるが、大正のはじめ頃、酒田から島の取材にきた新聞記者が、

この子どもたちを南京小僧と書いた。


それから急に南京小僧と言う言葉が有名になり、わざわざ南京小僧を見に来る者もあるようになっ

た。

 しかし、別に変わった人間ではなかった。

  南京小僧と新聞記者が言ったのは、南京米袋で作った仕事着を着ている者があったからで、島

の貧しい者のなかには、南京米袋を仕事着に仕立てて着ている者は少なくなかった。

 もらい子たちもそうゆうものを着せられて成長したものがあった。

 しかし、もらい子だからといって、特別にいやしめられたり、過重な労働を強いられたのではなく、

みんな貧しく、忙しく働いていたのである。


 この島へ17世紀の末ごろから廻船が寄港するようになった。

日本海沿岸の諸平野でできた米を大阪や江戸へ輸送するために、多くの廻船が瀬戸内海地方

からやってくるようになった。

 そうしした船で風よけ波よけのちゃめに、この島かげに碇を下ろすものが多くなってきた。

 庄内平野は米どころであった。

その米を積み出すために酒田の港は栄えた。

しかし、西をうけているから、西風が吹くと海が荒れて、沖に船をとめておくことができない。

そこで、はるか沖合いにある飛島まで行って、その島かげに船をとめた。

酒田に入る船ばかりでなく、それから北へ土崎(つちさき)、能代(のしろ)、鯵か沢(あじかさわ)、

十三湊(とさみなと)、さらにその北の北海道へニシンやタラやコンブなどを積みに行く船もこの島

の近くで西風にあえば寄ってきた。


 そうした船を相手に、島には船宿が何軒もできた。船問屋ともいっている。

 船がやってくると、船問屋の若い者たちが一斉に磯船に乗ってこぎ寄せていき、

「よい あんばいでした。 お船はどちらですか」

と声をかける。

すると船の方では、越中なら、

「越中や、 越中や」

能登ならば、

「能登や、 能登や」

という風に答える。

 問屋の方にはそれぞれ、どこの船は何屋が得意先と決まっているので、その問屋のものが廻船   

へ登っていって、いろいろ世間話をし、

「手がすいたら おかへ あがりますように」

と挨拶しておいて帰る。そして、風呂をたき、もう一度磯舟で沖へ支度のできたことを知らせに行く。

 これを、風呂使いといった。

 船の方では留守番役を一人か二人残しておいて、他のものは伝馬にのって上陸し、風呂に入っ

て垢をおとす。

問屋では水夫たちに茶をだす。船頭は問屋のいろりのそばに座って主人と話している。

 さて、水夫たちの風呂が済むと、船頭に泊まるか、船に戻るかを聞く。

帰るといえば宿で一服してみんなで沖の船に帰るが、たいていは泊まることになる。

すると、水夫たちは船頭を残して帰る。そして、翌朝、大きなめしびつに飯を一杯入れて持ってく

る。島には米がないから、米だけは船から持参する。

そして、宿の方では酒や肴を出す。

酒好きの船頭ならば朝から酒を飲む。夕方には帰る者もあるが、風の都合が悪ければ、二日も三

日も休んでいくこともある。

 もとより、小さな島のことであるから、遊女のようなものはいない。

 帰るとき、別に勘定はしない。船頭の心次第でいくらかの金をつつんで、いろりのそばにおいて

くる。

なかには船に帰って飯炊きの若者に持たせてよこすこともある。

 問屋の方から風呂代や茶代を直接請求するのでないから、そのまま出航してしまうこともある。

そんな時には問屋の主人は若者たちに

「祝儀をもらってこい」

といいつける。

若者たちはあわてて磯船を漕ぎ出すのだが、船足が速くおいつききらぬこともある。しかし、そうゆ

うことは若者たちにとって恥なので、どんな苦労をしてでも漕いでいき、時には波の立っている海

を一里も二里も追いかけることがある。

 やっと、廻船に漕ぎ着けても、祝儀をくれとは言わない。乞食行為になるからで、島のものの誇り

を傷つける。

だから、ただ。

「お船 出航ですか」

という。相手が祝儀をくれるまで何回でもくりかえしていう。

たいてい、忘れているのだが、時にはからかいの気持ちあって、わざと祝儀をおいてこないことも

あるが、いわゆる食い逃げはしない。

 だから、廻船の方でも包み金を磯船に投げ込んでくれる。

そのご祝儀というのは明治30年(1897)ころに20銭か30銭であり、50銭出す船はまれであった。

ほんのわずかな金であったが、それでも島にとっては、また問屋にとっては大事な収入の一つで

あった。





 















 そうした船問屋のなかの一軒に、客扱いになれない嫁をもらったところがあった。

女は働き者であったが、島の漁家育ちで、べつに教養があったわけでもなかった。


 ある時のこと、得意先の船が何隻も同時にやってきて、女は台所でてんてこまいをして働いてい

た。

 若い嫁には男の子が一人いた。

やっと立って歩くほどの子であったが、忙しく立ち働く母の足元にもつれかかるようにして後を追い

回していた。

 座敷では船頭や水夫がそれを所在無く見つつ、ご馳走のできるのを待っていた。

 ご馳走といっても粗末なものであった。

さや豆の煮たもの、魚の煮たもの、その他、海藻をあえものにしたようなものだが、それをお皿に盛

るのではなく、大きな桐の葉をとってきて、それに盛り、箸をそえてだすのである。

 それは、島が貧しかったからか、さらにずっと昔からのしきたりであったのか。とにかく、島の人は

つつましく素朴で、船をこぎ寄せる人達も、そうした島の風物を愛していた。


 女は桐の葉を台所の流しのところで洗い、盛り合わせをするためのおかずをこしらえ始めた。

すると、子どもが板の間で大声で泣き出した。

 小便をしたのである。

母親は働く手を止めて、子どもを見た。

小便が板の間の上を流れていた。

 母親は、すぐに子どものむつきをはずして、その小便をふき、むつきは板の間の隅へ持っていっ

た。

 そして、手も洗いもせず、また、料理を始めた。


それを見ていた船頭たちは立ち上がって、用事ができたからといって船にかえっていった。

浜まで船頭を送り出た水夫たちもそのまま問屋には帰ってこなかった。

 若い嫁は、作り上げた料理を前にして途方にくれて、若者に頼んで、沖の船へ水夫たちを呼び

に行ってもらったが、幼児があるからと言って誰も来ない。

 そればかりではない。

 それから後、次々に入港してくる得意先の船の船頭たちも、その問屋へは寄りつかなくなってし

まった。

 問屋の家ではどうしたことかと驚きもし、困り果てて、得意先の船頭に聞いてみると、若い嫁がむ

つきで小便をふいた手で、そのまま料理をしたのを見たという話を島に来る前に、酒田の湊で聞

いたという。

 そうゆうことがあると、みな連絡しあって、廻船仲間に知れてしまう。

そのために、その問屋へ船が寄り付かなくなってきたのである。

 嫁に悪意があったのではない。

働き者のよい嫁である。それに子どももできている。

だが、その嫁がいたのでは船は寄り付かない。

 どうすることもできないので、親が庄屋の家に行って相談した。

すると、庄屋は離縁をすすめた。

問屋では嫁を里に帰した。

「わしに 離縁をされるような 罪があるのか。

わしが どんな悪いことを したというのか。

わけをゆうてくれ

わけをゆうとくれねば 家をば 焼くぞぇ」

 毎晩のように、女は問屋の前にきてはどなった。

その声を聞く度に、家の中にいる幼い子が母を慕って、火のついたように泣いた。

すると、

女は狂ったようにわめきたてた

 精一杯働いて、働いた末の離縁である。

思いあきらめることのできないわだかまりがあり、また、子供への愛着があった。

 問屋の家ではおそれをなして、また、庄屋の家に相談に行った。


「仕方がない 地方(じかた)流し にしょう」

と庄屋は言った。


 
 昔は」本土には思い罪人を島流しにする制度があった。

佐渡も隠岐も壱岐も五島も屋久島も、また、伊豆の沖の新島、三宅島、八丈島もそうした罪人を流

した島であった。

 ところが、島では罪人を本土に流す風習があった。

それは、刑死につぐ重い刑罰であった。

これを 地方流し といった。


 問屋の嫁は罪を犯したのでもない。家に火をつけたのでもない。

子供恋しさに、また、自分としては何ひとつ落ち度がと思う節もないのに、地方流しにされることに

なったのである。


 
 
 庄屋は島内三か村から一人づつ人夫を出させ、川崎船という磯船よりは大きな荷船に女を乗せ

て、本土にむかって漕がせた。

 女は船の上で地団駄をふんで泣いた。

「地方に行って、真面目に働いておれば、また、島へかえしてもらえることもあろうから・・」

と、船こぐものは慰めようとしたが、女は耳をかさないで、果ては、船べりにすがりついて泣いた。

「何ぼ泣いてもわめいても、わめけばわめくほどお前の損じゃ・・」

終いには、男たちも不機嫌になって、女を叱ったが、それも効き目がなかった。

 やっと、船は吹き浦の港へついた。

船べりにしがみついている女の手を放し、陸へ無理矢理に上げて、

「どこへでも いくがええ・・」

と言って、三人の者は急いで沖に漕ぎ出した。

 女は長い間、遠ざかる船を見て、砂浜の上でわめき続けていた。


それっきり、女の消息は絶えてしまった。


















 こうして、一年が過ぎ、二年が過ぎた。

その後も、その問屋には船は寄り付かず、おちぶれていく一方だった。

問屋には女手がほしい、つくづく思った。

そして、船問屋は流した女のことはあきらめて、後妻をもらうことにした。

 村のはずれに才気ある美しい女がいた。

素性知らずの女であるが、声もよく、歌も踊りも上手く、その上三味線もひくことができた。

 しばらくして、女は船問屋の嫁になった。

港に元の得意先の船が入ると、女は自分で磯船の櫓をおして、船に乗って船頭と話し合い、自分

の家に連れてくるようになった。

美人である上に、もてなしもよい、そこで、船頭たちもまた、この船問屋を訪れるようになった。

 何年経っても女は以前の身の上話は一切しなかった。

船問屋もまた、問わなかった。


  地方流し   宮本常一「女の民俗誌」より
           構成 高橋秀夫         2012.9.24





           
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# by hidesannno | 2012-09-24 22:48
夢を編むその3 やさしい革命
夢を編む その3


              
               やさしい革命

 やさしいという言葉には二通りの意味があり、僕たちはそれぞれに使いわけてきた。
ひとつは「優しい」、もうひとつは「易しい」。
 70年代終盤しゃべるうまさより黙るうまさがこれからの時代と喧騒の市街戦から風に舞う風媒花のように人垣は消えていった。消えたというよりどこかに戻っていったと表現したほうがいいかもしれない。バックパッキングの若者はヒッチハイクの長距離トラックで穏やかに暮す村をめざした。「優しさ」への旅。それは中央ではなく、辺境へ。強いものではなく弱いものへ。大河よりせせらぎへと向かうことであった。、その地と、そこに生活してきた人々に寄り添う旅である。
 詩人の山尾三省さんは源郷への旅といい、民俗学の姫田忠義さんはその旅を他火と呼んだ。

 ぼくの旅はと言えば、どさまわりの人形劇団がひとつの兆しであった。
その劇団は年に一度訪ねる小児病棟があった。心臓に重い疾患を抱え、生きられる時間は限られている子供ばかりのところだ。心臓疾患だから極度に興奮したりすることは病気を悪化させるため、なるべく静かに暮さなくてはならない。人形劇といえば子供たちの心を高揚させるのでここではご法度なものだが、子供たちの笑顔はそのご法度を解き放ってしまった。
わずかな時間だがこの慰問がぼくのこころのものさしの原型のようになった。こころのものさしというのは物事を自分はどのように考えるかということです。つまり、ここで学んだのは生きること、生きているということの根源的なことが一体何なのかという問いでありました。
次の年に訪ねると見知った子供の姿がそこにはないという現実。その時に喚起された問いはそれからずっとぼくの心にある。
 この子供たちからの問いはその後、障害者との出会いに引き継がれていった。
40年程前のことですから今の状況とはずいぶん違いますが、そのころは隔離収容施設が福祉行政の主流で僕が勤めた施設は重度心身障害児と呼ばれ、心身の障害に疾患を併せ持つ医療病棟色の濃い施設でした。大量収容ですから障害の程度はいろいろで常に酸素ボンベを抱えている子供から知的障害の子供たち、車椅子で詩を綴る二十歳を越す者も暮す施設でした。
 この施設で彼らから何が奪われていたかとというと、所有すること、選択すること、所属することでした。この三つは人が人たる要素であるのですが、そのことが極力抑えられていました。
 職員はといえば秋田おばこという集団就職の天使と呼ばれた風潮が受け継がれ、人員不足のなかで身体を壊していく職員が後を絶たない現状でした。

 強いものでなく、弱いものに寄り添うという自分の志がこの福祉現場で地団駄を踏むことになっていった。労働組合の書記長となり、ストライキをし、処遇改善に奔走した。が、自問自答は深まる一方であった。胃潰瘍になり、血を吐いた。
 そんな時、ひとりの車椅子の女性から相談を受けた。施設を出て、実家からも自立して町で暮したい。一人では難しいので手伝ってほしいと。僕らは四人の仲間で彼女の「家出」を支援することになった。
 が、彼女の家出は失敗に終わった。ぼくたちは誘拐の罪で告訴され、施設を懲戒解雇となった。
彼女には意思決定する能力、知能もないというのがその理由であった。(この詳しいいきさつはまたの機会にと思っていますが)この出来事は車椅子の国会議員と障害者団体の抗議で誘拐罪と懲戒解雇は撤回された。
 この頃、福祉現場での労働者弾圧が相次いだ時であった。

 ぼくたちは施設を辞めた。

 向かう先は?
 町はコンクリートでまぶしい
 人はわき目も振らずに足早に行き交う
 土の匂いのする仕事をしょうという山尾三省さんのメッセージが目にとまる
 戸板の上に泥付きの大根とふぞろいのじゃが芋が並んでいる 
 選ばないで
 この野菜は同じ畑で出来ました
 と
 やさしさって
 これだよ
 人も色々といて
 みんな違う
 やさしい関係って
 簡単なこと

   

             やさしい革命       高橋秀夫
 

 

 

 
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# by hidesannno | 2012-08-22 05:15
夢を編む2 土
夢を編む   その二


             「土」            

                            高橋秀夫


 愛犬が死んだ。
 18年、毎日店の前に出ては、優しげなまなざしで行き交う人達の心をホッコリさせていた愛犬がこの春静かにこの世を去った。みんなによくよくなでられていたせいか、毛並みはつやつやと光り、最期の時まで黄金色であった。
 まるで、通天閣のビリケンさんを思わせた。
 その看板犬が居なくなって、なにやら手持ちぶささなでぽっかり穴ぼこができたみたいに感じて仕方がない。喪失感もあるだろうが、朝、夕の散歩、ごはんの支度など世話することが日課のように、それも18年の続けてきたことだからそう感じるのでしょう。
 それは、行き帰りにあいさつをしてきた方々もそんな風に感じているのでしょう。

 年を経て「用事」がひとつ、ふたつと減っていくのは人の世の常であろうが、やはりさびしいものである。重たく煩わしいとさえ思っていたポケットの荷物が実際無くなってみるとおろおろと妙な執着を覚えるものである。
 そして、ポケットを押さえても残るのは思い出だけである。

 私達は自分のする役割、自分ものという所有、善いか否か、好きか嫌いかを自分で選択することをもって社会、家、などに属しているという。そのことで何億もの人々のなかで自分(私、自己)が自分自身であると自覚し、他者と関係していく際の要素といわれる。
 用事が無くなっていくことはその原則のような日常生活の時間が社会性を失っていくことの現れであるようだ。もちろん、そこで次へと受け継がれていくことが大事なことである。それは連綿とつながってきた歴史の最前の者としての役割であると思います。
 言い換えれば、自己とは集団,社会の中のひとつの要素であるわけです。

 僕は旧暦でいう還暦である。サラリーマンなら停年となる歳だ。
仕事という「用事」がなくなり、第二の人生と呼ばれる年、たそがれの第四コーナーをまわりながら自分の人生を反芻する時である。

 つもりつもったメタボの腹を何とかしょうと汗を流すご同輩の姿。
ぎこちないジーパン姿は、ニッポンを豊かにしてきた戦士とは思えないが、昔ばなしをたぐり寄せては、孫に聞かせる善事を探す。

 昭和余年に咲きし花
 黒く染まりて散りぬるを
 自戒遅しや
 坂の家路

 現代の平均寿命からすると、人はこの世に生を受けると、30000日ほどの時間(生命)をもらう計算になる。もちろん、地虫やペンペン草のように踏みつけられるという不測の事態がない場合であるが。僕は大半を使い、残されている日は5,6千ほどだ。その与えられた時間を何に費やしたかは人それぞれだろう。
 善事を探すご同輩。善事と悪事のものさしさえ不鮮明な世にあって、ただただその日その日を繰り返し、生きている感じを探ししていた日々。いつしか隣の垣根の高さを気にしながらより高くより高くと。いつか生きてる感じがわかる日がと全力疾走してきた。そんな大方のぼんやりした幸福感をつつんでいったのが機械仕掛けの「便利な生活」と「豊かな将来」だった。 
 それは、いのちの長さまで延ばし、ニッポンは世界一、二の長寿国となった。私が生まれた当時(1951年)からでも20年近くも寿命を延ばしことになるから
自分もその恩恵かと、少々複雑であるが。もちろん、近代科学は歴史に誇れる多くのことも生み出してきた。

 一体「生きてる感じ」とは何なのでしょう。
 本当の「幸い」とは何なんでしょう。
そんなことを考えているうちに残された五、六千の時間は無くなってしまいそうだ。
 
 土で創られた我ら人間。素手は鍬となり弓となり、プロメテウスの火は煮炊き
から、やがて殺戮の兵器を人間は作った。機械仕掛けの道具は時間さえ創り出し、その時間はさらにおびただしいモノを生み出してきた。
 プロメテウスの火を私達は自分たちでさえ、始末できない原子力の火まで作り上げてきてしまった。そして、その中で「いのち」を「時間」を手に入れたつもりであった。
 しかし、近代科学の作り出した怪物と私達の排セツ物は美しい山野を空を海と変ぼうさせてきた。
 海が青かったこと、空に数えきれない流星がとびかったこと、川にキラキラ光る魚がいたこと。僕たちのあとににくる者たちは絵本にとじられたその風景を夢物語りとして耳をかたむける。私達が立ち向かった自然の逆襲をこれからくる者たちに残してしまったことにならないか。

 パンドラの箱から飛びだした病気、貧困、争い、犯罪、憎悪、嫉妬、老い・・箱に残ったわずかな希望を糧に、人は現代までいのちをつなげてきた。もし、その中のひとつでも箱から出なかったら、私達の歴史は、どんなだったのだろう。
 想像もできない世界だが、きっと、私達の存在さえ、なかったかもしれない。
 
 取りもどせるものがあるか。
 間に合うか。

 おろおろしている昭和余年のご同輩よ。
私達はもともと土から生まれたのだ。
私達が作ったあらゆるものは、土の上に作り上げたものだ。
 その土の思想を刻もう。


  町のコンクリートをはがせ

  そこにいのちの種をまけ

  あなたのコンクリートをはがせ
 
  そこにいのちの種をまけ

  わたしのコンクリートをはがせ

  そこにいのちの種をまけ

  わたしたちのコンクリートをはがせ

  そこにいのちの種をまけ

  やがて
 いのちの絆になれ
  


 


2012年6月15日 雨の夜に
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# by hidesannno | 2012-06-17 22:54
  

随筆と詩歌
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