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前略 山尾三省様
前略 山尾三省様



  
 東大寺のお水取りが終わり
 
 融風と呼ばれる風が

 山から吹いてくると
 
 ここらはすっかり春になります。

 山がめざめ動き出すと雲がゆれ
 
 春を告げる風になり、

 木々を道を家々を人々をあまねく伝え吹きます。

 融かす風と書いて融風と読みます。
 
 全てのものにやってくる春の始まりに降りてくる風、融風。
 
 冬を溶かす この時期
 
 すべてをやさしく包むやわらかい平和な時


 秋に葉を落としからからの蔓を残したぶどうの木に新芽が生まれました。

 三省さんと植えたのが29年前でしたからずいぶんと長生きのぶどうです。

 実こそ大して成りませんがその蔓、葉は
 
 夏の暑い日差しに涼しげな日陰をつくってくれます。

 娘がまだ小さい時、枯れ木が生きてる、生きてると何度も首をかしげた

 ぶどうの木です。

 実のところ私もそう思ったことでした。  

 春の風、融風に起こされるように今年も新芽が出ました。

 私達がここに来た年月もまた同じ29年。

 枯れ木が新芽を生むように私達も繰り返すようにここまで続いている。
 
 これは奇跡です。

 三省さんが亡くなり10年近くなりますが、
 
 このぶどうの木は
 
 もしかして三省さんのいのちを宿すものなのかもしれません。

 そして

 私や私達の全ての命の姿なのかもしれません。

 根元は深々と土に根ざしています。

 これは奇跡です。
  
 そのぶどうの木に新芽見つけた日に
 
 るこう草の種を今年も植えました 

 赤い小さな星のかたちのるこう草

 あなたへの花束のために





2010.4.3



















 
# by hidesannno | 2012-03-04 14:09
成木ぜめ
        成木ぜめ

 のう ばあさん
 あんたが
 居のうなって
 はじめての春だぁ

 ばあさんが去年の夏
 そんなに
 強よう無う風に
 あっけのう倒れて
 今年の春は
 わし ひとり 

 のう ばあさん
 そんときぃ
 若いもんが言ったように
 わしも 倒してもろうたら
 えがったと
 思うとる

 そこらじゅうのもんは
 きれーぃに咲きよる 
 みーんなにほめられ
 誇らしげに咲きよる

 のう ばあさん
 わしはひとりやさかい
 そいぇも ばあさんおらんよって
 かっこうもぶさいくや
 けど 春や
 なさけないが咲きよる
 あっちこっち
 ポッツ ポッツ と出てきよる

 のう ばあさん
 ひとりやさかいさびしいもんかと
 思うとったら
 なんの えらい花盛りや
 前のにいさんもえらいおどろいとった
 そんひとはばあさんが倒れた時
 しんせつにあんたを助けようとしてくれた人や
 わしがばあさんのようになろうとしたが
 そのにいさんに止められたんや

 わしがあまりにたくさんの花を
 咲かしたもんやから
 にいさんはびっくりしたが
 しばらくしてこんなことをつぶやいてるのが
 聞こえよった 
 
 成木ぜめだ  なるきぜめだ
 と
 
              2010・4・20 ひで
# by hidesannno | 2012-03-04 13:44
空に  その1
「空に」その1

星座図鑑を買った
暗いところでも光る本だ
自分の居る場所と時刻を合わせると
見上げる空の星ぼしがわかる
夜空のガイドブックだ
少々照れくさいのでひそかに持ち歩いている
昔、幾度となく星空を見上げ、詩人のようになったものだ
きっと、誰にでもある思い出

僕の空
私の空
初めての家出
越後、親知らず子知らず
夜の深さの暗緑色の沈黙

月の満ち欠け
深々とにび色の妙なる月光
月を見る
月が見る
時空、四次元の闇と光
空と僕との間にあるおびただしい不可思議に
自分が一つの小さな星であることに気ずく
私が月を見る
月が私を見る

空は普遍の(不変)の時を告げ
地上に放つ光の数々はどれほどに私達が変ろうとも
光つつ”けている
全ての私達は
空になり星になり
私を照らし
私を見る
私は鈍く光り、時に明滅する

月の光
星ぼしの輝きと明滅は膨大な歴史のひだ
滴り、明滅しながら深く広がる







『空に」(その1)から
# by hidesannno | 2012-03-04 13:39
梅のコロッケ
 コンクリートの床で立ち仕事をしていると足がすっかり冷えてしまう。靴下二枚と長靴でもだ。同じ時間歩いたり、走ったりしてたらいいのだろうが、ずっと立ったままだと疲れよりかちかちの足の冷えを痛感する。それほどに夢中になってしまったわけはコロッケを作っていたからです。そのコロッケ、お店の苦肉の手づくり。ずいぶんと前から誰も手にしないぶさいくなじゃがいも、ぶさいくなんていうと失礼だがでこぼこでいびつの面がまえはどうしてもとなりのプリッととした「じゃがいも然」とした面々に先を越されてしまう。同じ畑で同じように育ったのであるが、よく考えればわれら人間、男も女たちもおんなじ面構えなんぞないもの。そう、いもだってそうだ。いろいろとあっていいはずなのにぽつんと残る。そもそも、普通のお店にはでこぼこの彼らは登場しない。畑に置き去りかなにかの原料になる人生と相場は決まっている。が、ここではもう開店した時からいもに限らず「個性」的な野菜が並んでいる。見た目を大事にする「和の日本文化」というが、僕らは「もったいない」の生活文化を優先したから個性豊かな野菜たちが時々店に登場するのです。でも残ってしまう現実もまた事実ですが。味に違いはないし、みんなちがってみんないいと考えて食卓にならべればおいしいじゃがいもとしてわたし達は満腹になる。そう、それで十分。
 今夜、そのいもをコロッケにした。肉のかわりに梅肉を包み込んだ梅コロッケ。3時間ほど立ちながらのコロッケつくりだったのですっかり足が冷えてしまったわけです。できあがったコロッケを眺めながら、ふと、はじめどんなかっこうのいもだったけ、と。そのことよりこんな冷えた足にはやはり足湯だ。湯に足を突っ込みほっーと気持ちいい疲れがほんのり赤くなった足からとけて少しこころがうれしそうだ。明日の朝は梅コロッケサンドにコーヒーにするか。
 あなたも気が向いたら梅コロッケ食べに来ませんか。 ひで
When I stand on a floor of the concrete and work, means of transportation completely cool off. Two pieces of socks and boots but. Even if I walk in same time and should have run, I keenly realize the cold of the foot which is harder than fatigue when standing all the time. The reason that became crazy about it is because I made a croquette. The croquette, the handicraft of the desperate plan of the shop. When a plain-looking potato, the frump whom nobody from the front has in its hand say very much, as for the rudeness だがでこぼこでいびつの expression, it is gone over the point to never next プリッ and "potato 然" which I did and the all who did it. The thing which I was brought up in the same way in the same field, but there is not as for look what same as for we human being, the man as for the women if it is good and thinks. Even a potato is so so. Though I may meet in various ways, I stay alone. In the first place they who are rough do not appear in the common shop. The market is fixed at the life becoming leaving behind or some kind of raw materials in a field. But, vegetables of "the personality" form a line as well as a potato since it already opened here. I say "the Japanese culture of the sum" to regard an appearance as important, but vegetables of marked sometimes appear in the shop because we gave priority to "wasteful" の life culture. But left reality is a fact again. I am not different in taste, and we become full as the potato which is delicious if I think that all are different, and all are good and can line up on the dining table. Thus I am so enough.
 I made the potato a croquette tonight. The plum croquette which wrapped up ume flesh in substitution for meat. Because it was a croquette structure while it stood for approximately 3 hours, means of transportation have completely cooled off. It is はじめどんなかっこうのいもだったけ, と in spite of being a view with a completed croquette incidentally. After all it is footbathing to such a cool foot than it. The fatigue that 突 っ みほっーと including it is comfortable can clear up a foot from the foot which became slightly red into hot water, and some hearts look glad. Do you make it coffee to plum croquette sand in the morning of tomorrow?
 Do not you come to eat a plum croquette if you feel like it?  ひで
# by hidesannno | 2012-02-25 23:15
桜その1

俗に言う花見というものをしたことがない。
敢えて思い出してみると「らしき」ことがあった。一つは、高校の時抽選であたったコンサートの帰り友人に誘われて会場の近くの公園で桜をながめたことだ。コンサートの余韻のせいか僕達は売店で缶ビールを買い池を覆うように咲く桜の木下で周りのまねをし乾杯。
 そこは桜の名所らしく結構な人出だった。兄さん達よ、まぁ、まぁ、まぁととなりから酒といかが回ってきた。友人はすでに赤くなってほろ酔いですっかりその輪に入っている。高校生であるから酒席など当然初めてのこと。僕も
いつの間にか少し前に聞いたショパンはどこかにいって三波春夫を合唱してる。
 その公園の桜はまるで池に自身を写すように咲き誇り、水面にまで花が咲いてるようで酔うまでも無くくらくらする風景であった。その桜は人々の歓声や嬌声など全く知らん風でただただ池に写るもうひとつの自分である桜を眺めているようでした。
 桜の木は繰り返し繰り返し風が柔らかくなると花を開くだけ、人々が居ようが居まいがそんなことは関係なく咲くのです。風と月と飛ぶ鳥の知らせで咲くのです。
 花見の酔客が帰った夜更けにも美しくその姿を池に映している。
 初めての花見のせいか僕達は帰りには駅でしこたまあげた。
 それから、思い出す限り木の下でゴザ拡げて飲み食いした記憶がない。
 いつの頃からか春四月、桜が咲いて散るその短い間ずっと思う事が続いている。
 一本の桜の老木のことだ。   
# by hidesannno | 2012-02-25 23:10
  

随筆と詩歌
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