夢を編む その3
やさしい革命
やさしいという言葉には二通りの意味があり、僕たちはそれぞれに使いわけてきた。
ひとつは「優しい」、もうひとつは「易しい」。
70年代終盤しゃべるうまさより黙るうまさがこれからの時代と喧騒の市街戦から風に舞う風媒花のように人垣は消えていった。消えたというよりどこかに戻っていったと表現したほうがいいかもしれない。バックパッキングの若者はヒッチハイクの長距離トラックで穏やかに暮す村をめざした。「優しさ」への旅。それは中央ではなく、辺境へ。強いものではなく弱いものへ。大河よりせせらぎへと向かうことであった。、その地と、そこに生活してきた人々に寄り添う旅である。
詩人の山尾三省さんは源郷への旅といい、民俗学の姫田忠義さんはその旅を他火と呼んだ。
ぼくの旅はと言えば、どさまわりの人形劇団がひとつの兆しであった。
その劇団は年に一度訪ねる小児病棟があった。心臓に重い疾患を抱え、生きられる時間は限られている子供ばかりのところだ。心臓疾患だから極度に興奮したりすることは病気を悪化させるため、なるべく静かに暮さなくてはならない。人形劇といえば子供たちの心を高揚させるのでここではご法度なものだが、子供たちの笑顔はそのご法度を解き放ってしまった。
わずかな時間だがこの慰問がぼくのこころのものさしの原型のようになった。こころのものさしというのは物事を自分はどのように考えるかということです。つまり、ここで学んだのは生きること、生きているということの根源的なことが一体何なのかという問いでありました。
次の年に訪ねると見知った子供の姿がそこにはないという現実。その時に喚起された問いはそれからずっとぼくの心にある。
この子供たちからの問いはその後、障害者との出会いに引き継がれていった。
40年程前のことですから今の状況とはずいぶん違いますが、そのころは隔離収容施設が福祉行政の主流で僕が勤めた施設は重度心身障害児と呼ばれ、心身の障害に疾患を併せ持つ医療病棟色の濃い施設でした。大量収容ですから障害の程度はいろいろで常に酸素ボンベを抱えている子供から知的障害の子供たち、車椅子で詩を綴る二十歳を越す者も暮す施設でした。
この施設で彼らから何が奪われていたかとというと、所有すること、選択すること、所属することでした。この三つは人が人たる要素であるのですが、そのことが極力抑えられていました。
職員はといえば秋田おばこという集団就職の天使と呼ばれた風潮が受け継がれ、人員不足のなかで身体を壊していく職員が後を絶たない現状でした。
強いものでなく、弱いものに寄り添うという自分の志がこの福祉現場で地団駄を踏むことになっていった。労働組合の書記長となり、ストライキをし、処遇改善に奔走した。が、自問自答は深まる一方であった。胃潰瘍になり、血を吐いた。
そんな時、ひとりの車椅子の女性から相談を受けた。施設を出て、実家からも自立して町で暮したい。一人では難しいので手伝ってほしいと。僕らは四人の仲間で彼女の「家出」を支援することになった。
が、彼女の家出は失敗に終わった。ぼくたちは誘拐の罪で告訴され、施設を懲戒解雇となった。
彼女には意思決定する能力、知能もないというのがその理由であった。(この詳しいいきさつはまたの機会にと思っていますが)この出来事は車椅子の国会議員と障害者団体の抗議で誘拐罪と懲戒解雇は撤回された。
この頃、福祉現場での労働者弾圧が相次いだ時であった。
ぼくたちは施設を辞めた。
向かう先は?
町はコンクリートでまぶしい
人はわき目も振らずに足早に行き交う
土の匂いのする仕事をしょうという山尾三省さんのメッセージが目にとまる
戸板の上に泥付きの大根とふぞろいのじゃが芋が並んでいる
選ばないで
この野菜は同じ畑で出来ました
と
やさしさって
これだよ
人も色々といて
みんな違う
やさしい関係って
簡単なこと
やさしい革命 高橋秀夫
やさしい革命
やさしいという言葉には二通りの意味があり、僕たちはそれぞれに使いわけてきた。
ひとつは「優しい」、もうひとつは「易しい」。
70年代終盤しゃべるうまさより黙るうまさがこれからの時代と喧騒の市街戦から風に舞う風媒花のように人垣は消えていった。消えたというよりどこかに戻っていったと表現したほうがいいかもしれない。バックパッキングの若者はヒッチハイクの長距離トラックで穏やかに暮す村をめざした。「優しさ」への旅。それは中央ではなく、辺境へ。強いものではなく弱いものへ。大河よりせせらぎへと向かうことであった。、その地と、そこに生活してきた人々に寄り添う旅である。
詩人の山尾三省さんは源郷への旅といい、民俗学の姫田忠義さんはその旅を他火と呼んだ。
ぼくの旅はと言えば、どさまわりの人形劇団がひとつの兆しであった。
その劇団は年に一度訪ねる小児病棟があった。心臓に重い疾患を抱え、生きられる時間は限られている子供ばかりのところだ。心臓疾患だから極度に興奮したりすることは病気を悪化させるため、なるべく静かに暮さなくてはならない。人形劇といえば子供たちの心を高揚させるのでここではご法度なものだが、子供たちの笑顔はそのご法度を解き放ってしまった。
わずかな時間だがこの慰問がぼくのこころのものさしの原型のようになった。こころのものさしというのは物事を自分はどのように考えるかということです。つまり、ここで学んだのは生きること、生きているということの根源的なことが一体何なのかという問いでありました。
次の年に訪ねると見知った子供の姿がそこにはないという現実。その時に喚起された問いはそれからずっとぼくの心にある。
この子供たちからの問いはその後、障害者との出会いに引き継がれていった。
40年程前のことですから今の状況とはずいぶん違いますが、そのころは隔離収容施設が福祉行政の主流で僕が勤めた施設は重度心身障害児と呼ばれ、心身の障害に疾患を併せ持つ医療病棟色の濃い施設でした。大量収容ですから障害の程度はいろいろで常に酸素ボンベを抱えている子供から知的障害の子供たち、車椅子で詩を綴る二十歳を越す者も暮す施設でした。
この施設で彼らから何が奪われていたかとというと、所有すること、選択すること、所属することでした。この三つは人が人たる要素であるのですが、そのことが極力抑えられていました。
職員はといえば秋田おばこという集団就職の天使と呼ばれた風潮が受け継がれ、人員不足のなかで身体を壊していく職員が後を絶たない現状でした。
強いものでなく、弱いものに寄り添うという自分の志がこの福祉現場で地団駄を踏むことになっていった。労働組合の書記長となり、ストライキをし、処遇改善に奔走した。が、自問自答は深まる一方であった。胃潰瘍になり、血を吐いた。
そんな時、ひとりの車椅子の女性から相談を受けた。施設を出て、実家からも自立して町で暮したい。一人では難しいので手伝ってほしいと。僕らは四人の仲間で彼女の「家出」を支援することになった。
が、彼女の家出は失敗に終わった。ぼくたちは誘拐の罪で告訴され、施設を懲戒解雇となった。
彼女には意思決定する能力、知能もないというのがその理由であった。(この詳しいいきさつはまたの機会にと思っていますが)この出来事は車椅子の国会議員と障害者団体の抗議で誘拐罪と懲戒解雇は撤回された。
この頃、福祉現場での労働者弾圧が相次いだ時であった。
ぼくたちは施設を辞めた。
向かう先は?
町はコンクリートでまぶしい
人はわき目も振らずに足早に行き交う
土の匂いのする仕事をしょうという山尾三省さんのメッセージが目にとまる
戸板の上に泥付きの大根とふぞろいのじゃが芋が並んでいる
選ばないで
この野菜は同じ畑で出来ました
と
やさしさって
これだよ
人も色々といて
みんな違う
やさしい関係って
簡単なこと
やさしい革命 高橋秀夫
by hidesannno
| 2012-08-22 05:15