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地方(じがた)流し
          地方流し  「飛び島の女」

 山形県酒田の港を出て西北に40キロ。

只、広々とした海の上におき忘れたように飛島がある。

 面積2.85平方キロほどのちいさな台状の島で、台地の下の渚のほとりの帯のような平地をしめて

、東側に勝浦、浦、北側に法木という三つの部落がある。台地の上は松を風垣にした畑が一面に

ひらけて、西から吹き付ける冬の風を防いで作物を作っている。

 人家は200戸ほど。それが200年程の間ほとんど変わっていない。時には157戸に減ったこと

もあったが、最近少し増えてきた。

これ以上の人は住めないので、あまった者はむかしから移住し、帰ってくる者はほとんどなかった。

それでいて、漁の時期には人手が不足して、どうしても若いものの手がいるので、毎年、本土の村

々からあまった子どもがあるともらってきて育て、労力の補いにした。

だから、どこの家にも一人や二人のもらい子のいない家はなかったもので、あと継ぎのない家は養

子にして、あとをとらせた者も少なくない。

 小さい島のわずかばかりの畑では食うものは不足ふそくがちであったから、秋から春にかけて、

ワカメやイカやその他残り物をとって干したり、、塩物にしてたくわえておいて。5月の田植えのは

じまる前に、それを船に積んで酒田や吹浦の港につなぎ、その背後の村々へ売ってまわった。

 売るといったところで、そうゆうものがほしい家へ置いてくるのである。それにはそれぞれ懇意な

村があって、そこへ出かけて行く。

 島の人達が持ってきた海のものが5月の田植えの大事なおかずになったのである。

この5月の船を五月船といった。


 島人はそうした海産物を農家にくばってしまうと、また島へ帰ってくる。

そして、秋まで海の稼ぎをする。

 それをもってちょうど秋の取り入れの済んだ後、また、平野の農家を歩いて、海産物の代償として

食料をもらって帰ってくる。

 これを、秋船といった。


 そんな時、農家で育てかねている子どもをもらってきたのである。

島ではもらい子で通っていたのであるが、大正のはじめ頃、酒田から島の取材にきた新聞記者が、

この子どもたちを南京小僧と書いた。


それから急に南京小僧と言う言葉が有名になり、わざわざ南京小僧を見に来る者もあるようになっ

た。

 しかし、別に変わった人間ではなかった。

  南京小僧と新聞記者が言ったのは、南京米袋で作った仕事着を着ている者があったからで、島

の貧しい者のなかには、南京米袋を仕事着に仕立てて着ている者は少なくなかった。

 もらい子たちもそうゆうものを着せられて成長したものがあった。

 しかし、もらい子だからといって、特別にいやしめられたり、過重な労働を強いられたのではなく、

みんな貧しく、忙しく働いていたのである。


 この島へ17世紀の末ごろから廻船が寄港するようになった。

日本海沿岸の諸平野でできた米を大阪や江戸へ輸送するために、多くの廻船が瀬戸内海地方

からやってくるようになった。

 そうしした船で風よけ波よけのちゃめに、この島かげに碇を下ろすものが多くなってきた。

 庄内平野は米どころであった。

その米を積み出すために酒田の港は栄えた。

しかし、西をうけているから、西風が吹くと海が荒れて、沖に船をとめておくことができない。

そこで、はるか沖合いにある飛島まで行って、その島かげに船をとめた。

酒田に入る船ばかりでなく、それから北へ土崎(つちさき)、能代(のしろ)、鯵か沢(あじかさわ)、

十三湊(とさみなと)、さらにその北の北海道へニシンやタラやコンブなどを積みに行く船もこの島

の近くで西風にあえば寄ってきた。


 そうした船を相手に、島には船宿が何軒もできた。船問屋ともいっている。

 船がやってくると、船問屋の若い者たちが一斉に磯船に乗ってこぎ寄せていき、

「よい あんばいでした。 お船はどちらですか」

と声をかける。

すると船の方では、越中なら、

「越中や、 越中や」

能登ならば、

「能登や、 能登や」

という風に答える。

 問屋の方にはそれぞれ、どこの船は何屋が得意先と決まっているので、その問屋のものが廻船   

へ登っていって、いろいろ世間話をし、

「手がすいたら おかへ あがりますように」

と挨拶しておいて帰る。そして、風呂をたき、もう一度磯舟で沖へ支度のできたことを知らせに行く。

 これを、風呂使いといった。

 船の方では留守番役を一人か二人残しておいて、他のものは伝馬にのって上陸し、風呂に入っ

て垢をおとす。

問屋では水夫たちに茶をだす。船頭は問屋のいろりのそばに座って主人と話している。

 さて、水夫たちの風呂が済むと、船頭に泊まるか、船に戻るかを聞く。

帰るといえば宿で一服してみんなで沖の船に帰るが、たいていは泊まることになる。

すると、水夫たちは船頭を残して帰る。そして、翌朝、大きなめしびつに飯を一杯入れて持ってく

る。島には米がないから、米だけは船から持参する。

そして、宿の方では酒や肴を出す。

酒好きの船頭ならば朝から酒を飲む。夕方には帰る者もあるが、風の都合が悪ければ、二日も三

日も休んでいくこともある。

 もとより、小さな島のことであるから、遊女のようなものはいない。

 帰るとき、別に勘定はしない。船頭の心次第でいくらかの金をつつんで、いろりのそばにおいて

くる。

なかには船に帰って飯炊きの若者に持たせてよこすこともある。

 問屋の方から風呂代や茶代を直接請求するのでないから、そのまま出航してしまうこともある。

そんな時には問屋の主人は若者たちに

「祝儀をもらってこい」

といいつける。

若者たちはあわてて磯船を漕ぎ出すのだが、船足が速くおいつききらぬこともある。しかし、そうゆ

うことは若者たちにとって恥なので、どんな苦労をしてでも漕いでいき、時には波の立っている海

を一里も二里も追いかけることがある。

 やっと、廻船に漕ぎ着けても、祝儀をくれとは言わない。乞食行為になるからで、島のものの誇り

を傷つける。

だから、ただ。

「お船 出航ですか」

という。相手が祝儀をくれるまで何回でもくりかえしていう。

たいてい、忘れているのだが、時にはからかいの気持ちあって、わざと祝儀をおいてこないことも

あるが、いわゆる食い逃げはしない。

 だから、廻船の方でも包み金を磯船に投げ込んでくれる。

そのご祝儀というのは明治30年(1897)ころに20銭か30銭であり、50銭出す船はまれであった。

ほんのわずかな金であったが、それでも島にとっては、また問屋にとっては大事な収入の一つで

あった。





 















 そうした船問屋のなかの一軒に、客扱いになれない嫁をもらったところがあった。

女は働き者であったが、島の漁家育ちで、べつに教養があったわけでもなかった。


 ある時のこと、得意先の船が何隻も同時にやってきて、女は台所でてんてこまいをして働いてい

た。

 若い嫁には男の子が一人いた。

やっと立って歩くほどの子であったが、忙しく立ち働く母の足元にもつれかかるようにして後を追い

回していた。

 座敷では船頭や水夫がそれを所在無く見つつ、ご馳走のできるのを待っていた。

 ご馳走といっても粗末なものであった。

さや豆の煮たもの、魚の煮たもの、その他、海藻をあえものにしたようなものだが、それをお皿に盛

るのではなく、大きな桐の葉をとってきて、それに盛り、箸をそえてだすのである。

 それは、島が貧しかったからか、さらにずっと昔からのしきたりであったのか。とにかく、島の人は

つつましく素朴で、船をこぎ寄せる人達も、そうした島の風物を愛していた。


 女は桐の葉を台所の流しのところで洗い、盛り合わせをするためのおかずをこしらえ始めた。

すると、子どもが板の間で大声で泣き出した。

 小便をしたのである。

母親は働く手を止めて、子どもを見た。

小便が板の間の上を流れていた。

 母親は、すぐに子どものむつきをはずして、その小便をふき、むつきは板の間の隅へ持っていっ

た。

 そして、手も洗いもせず、また、料理を始めた。


それを見ていた船頭たちは立ち上がって、用事ができたからといって船にかえっていった。

浜まで船頭を送り出た水夫たちもそのまま問屋には帰ってこなかった。

 若い嫁は、作り上げた料理を前にして途方にくれて、若者に頼んで、沖の船へ水夫たちを呼び

に行ってもらったが、幼児があるからと言って誰も来ない。

 そればかりではない。

 それから後、次々に入港してくる得意先の船の船頭たちも、その問屋へは寄りつかなくなってし

まった。

 問屋の家ではどうしたことかと驚きもし、困り果てて、得意先の船頭に聞いてみると、若い嫁がむ

つきで小便をふいた手で、そのまま料理をしたのを見たという話を島に来る前に、酒田の湊で聞

いたという。

 そうゆうことがあると、みな連絡しあって、廻船仲間に知れてしまう。

そのために、その問屋へ船が寄り付かなくなってきたのである。

 嫁に悪意があったのではない。

働き者のよい嫁である。それに子どももできている。

だが、その嫁がいたのでは船は寄り付かない。

 どうすることもできないので、親が庄屋の家に行って相談した。

すると、庄屋は離縁をすすめた。

問屋では嫁を里に帰した。

「わしに 離縁をされるような 罪があるのか。

わしが どんな悪いことを したというのか。

わけをゆうてくれ

わけをゆうとくれねば 家をば 焼くぞぇ」

 毎晩のように、女は問屋の前にきてはどなった。

その声を聞く度に、家の中にいる幼い子が母を慕って、火のついたように泣いた。

すると、

女は狂ったようにわめきたてた

 精一杯働いて、働いた末の離縁である。

思いあきらめることのできないわだかまりがあり、また、子供への愛着があった。

 問屋の家ではおそれをなして、また、庄屋の家に相談に行った。


「仕方がない 地方(じかた)流し にしょう」

と庄屋は言った。


 
 昔は」本土には思い罪人を島流しにする制度があった。

佐渡も隠岐も壱岐も五島も屋久島も、また、伊豆の沖の新島、三宅島、八丈島もそうした罪人を流

した島であった。

 ところが、島では罪人を本土に流す風習があった。

それは、刑死につぐ重い刑罰であった。

これを 地方流し といった。


 問屋の嫁は罪を犯したのでもない。家に火をつけたのでもない。

子供恋しさに、また、自分としては何ひとつ落ち度がと思う節もないのに、地方流しにされることに

なったのである。


 
 
 庄屋は島内三か村から一人づつ人夫を出させ、川崎船という磯船よりは大きな荷船に女を乗せ

て、本土にむかって漕がせた。

 女は船の上で地団駄をふんで泣いた。

「地方に行って、真面目に働いておれば、また、島へかえしてもらえることもあろうから・・」

と、船こぐものは慰めようとしたが、女は耳をかさないで、果ては、船べりにすがりついて泣いた。

「何ぼ泣いてもわめいても、わめけばわめくほどお前の損じゃ・・」

終いには、男たちも不機嫌になって、女を叱ったが、それも効き目がなかった。

 やっと、船は吹き浦の港へついた。

船べりにしがみついている女の手を放し、陸へ無理矢理に上げて、

「どこへでも いくがええ・・」

と言って、三人の者は急いで沖に漕ぎ出した。

 女は長い間、遠ざかる船を見て、砂浜の上でわめき続けていた。


それっきり、女の消息は絶えてしまった。


















 こうして、一年が過ぎ、二年が過ぎた。

その後も、その問屋には船は寄り付かず、おちぶれていく一方だった。

問屋には女手がほしい、つくづく思った。

そして、船問屋は流した女のことはあきらめて、後妻をもらうことにした。

 村のはずれに才気ある美しい女がいた。

素性知らずの女であるが、声もよく、歌も踊りも上手く、その上三味線もひくことができた。

 しばらくして、女は船問屋の嫁になった。

港に元の得意先の船が入ると、女は自分で磯船の櫓をおして、船に乗って船頭と話し合い、自分

の家に連れてくるようになった。

美人である上に、もてなしもよい、そこで、船頭たちもまた、この船問屋を訪れるようになった。

 何年経っても女は以前の身の上話は一切しなかった。

船問屋もまた、問わなかった。


  地方流し   宮本常一「女の民俗誌」より
           構成 高橋秀夫         2012.9.24





           
by hidesannno | 2012-09-24 22:48

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